ウェディング・チャイム

 三月十四日、ホワイトデー当日の朝。

 前回、バレンタインデーでトラブルが起こってしまった反省をもとに、誰よりも早く教室へ入ることにした。

 一番に到着したのは、稜君だった。


「おはよう、早いね」

「おはようございます。先生も今日はずいぶん早いですね」

「うん、まあね。……ところで稜君、ちょっと聞きたいんだけど、稜君のご両親って、市役所のどこに務めていらっしゃるの?」

「父は産業港湾部で、母は福祉部ですけど……」

「そっか、ありがとう」

「いいえ、どういたしまして」


 不思議そうに首をかしげる稜君だったけれど、それ以上追及しないでくれたので助かった。



 実は今日、婚姻届けを提出することに決めた。

 これは、甲賀先生の強い希望だった。



「3.14って何だ?」

「円周率、ですね」

「そう。だからこの日に入籍したいんだ」

「なぜですか?」

「円周率って、割り切れない数だから。永遠に続くんだ」

「あ……」


 その、数学的な考え方がやっぱり甲賀先生だな、と思った。



 仕事帰りに、市役所へ寄った。

 一階の窓口で、用意してあった書類をすべて提出する。


 また、二人でいるところを目撃されるかもしれないと思ったら落ち着かない気持ちになった。

 けれど、窓口のお姉さんに『おめでとうございます』と言われたときは、甲賀先生と二人並んでお礼の気持ちを伝えた。


 夜はそのまま、私の家で晩御飯を食べることになっていた。

「ホワイトデーだから、今度は俺が何か作ってみようと思っていたんだけどな」

「いいんですよ。私がやりたいんです。初めて妻としてお料理を作ってみた、なんて」


 自分で言ったにも関わらず、ものすごく恥ずかしい。


「それじゃあ、遠慮なく。いただきます」

「どうぞ召し上がれ」


 帰宅時刻が遅いから、大したものは作れなかったけれど、それでも喜んで食べてくれた。


「それでは、俺からのホワイトデーの贈り物」

 甲賀先生が、カバンから小さな箱を取り出した。

 これはもしかして……いや、絶対そうだ。


「どうか一生、その左手の薬指に嵌めていてください」

 結婚指輪と、エンゲージリングだった。

「婚約期間が短すぎて、一緒に渡すことになってしまったけれど」

 重ね付けできるデザインなので、二つ一緒に甲賀先生が嵌めてくれた。


「ありがとうございます。一生、大切にします。指輪と、もちろん新さんも」


 やっぱり名前を呼ぶのはものすごく照れくさくて、また床を転げ回りたくなったけれど、今回も甲賀先生によって阻止されました。

 夫婦として初めての夜。

 甘い甘い夜になるかと思いきや……。


「美紅、ごめん、公用文辞典貸して」

「どうぞ。ああもう眠たい~。もう疲れたよパトラッシュ」

「ダメだ! 今寝たら死にはしないけど結婚式に行けないぞ!」


 卒業式までに仕事を終わらせなくてはならないという、焦りと危機感でいっぱいの夜になってしまったのでした。
< 184 / 189 >

この作品をシェア

pagetop