月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
浅く嘆息しながら門をくぐって屋敷の中に入る。
「ただいま帰りました」
奥にいるのであろうばあやに声をかけて、履き物を脱いで上がった。
何の変化もない、日常。これが、日常なのだ。こちらの方が普通なのだから、早く、余計なことは忘れなければいけない。
私が、再び息をつきそうになっていると。
「……お帰り。今日もまた届いていたよ」
普段は決して迎えに出てくることのないばあやが、そんな言葉とともに姿を見せる。
「何が……?」
反射的にそう返してしまってから、はっとする。
もしかして、また、音人様から歌が届いたの……?
「何って、若穂宮様からの歌に決まっているじゃないか……何を言っているんだい」
ばあやの肯定の言葉に、驚愕に目を見開く私に、ばあやはなお続ける。
「それと……もし、明日も来るようなことがあったら、お前はどうなるんだい。皇子のお手付きとなったお前がどうなるかということをよく考えておきなさい」
「…………」
向けられた言葉に、私は何も言えなかった。
……痛いほどに、よくわかっていたし、考えてもいた。
きっとないとは思うけれど、もし明日も音人様がいらしたらどうなるのだろう、と。
私にはそれを望むことも、拒むことも出来ないのだから。
……だから、きっと考えたところで私の意思などお構いなしに状況は進んでいってしまうのかもしれないけれど、でも。
今このまま状況が進んで、もし、もしもだけれど、私が……妃、いや身分から言うと更衣(こうい)あたりが精一杯か、になる未来を考えてみても、全く想像出来ないのだ。
「……」
何も言わない私を見て、ばあやはそのまま自分の部屋に行こうと踵を返した。
けれど。
「……ばあや」
静かに、その背に呼び掛けて、言う。
「きっと明日は無いと思う……けれど、もし明日も歌が届いたならば、その時は勝手に返さないで。
──自分で返事をしたいの」
すると、一瞬だけばあやの足が止まり。
「……そうかい、わかったよ」
短い返事のあと、再び、ばあやの歩く床の軋む音が響いてきた。
「……」
私も、何も言わずに自分の部屋に向かった。
* * *
そしてまた、日が落ちて。
私は、中庭と自分の部屋を繋ぐ襖障子をそっと開き、闇の海に浮かぶ月を見つめていた。
もうすぐ満ちそうな上弦の月が、優しく夜を照らしている。
──初めて、音人様にお会いしたのが二日前。
その時に見えた月は、心なしか今日のそれよりも細かったような気がした。
たった二日、されど二日。
短いように思える時のなかで、しかし確実にかたちを変えていくものもあるのかもしれない。
……月も、そして、もしかしたら私も。
私はそっと息をつく。月から目を離し、襖に手をかけて閉じようとした。
そこに。
「紫苑の君」
もう、聞き慣れてしまっている落ち着いた声が届き、それは止められた。
静かに視線を動かして、その方向を見ると。
──そこには、月の青白い光に照らされた音人様がいて。
思わず何も言えなくなってしまい、私は黙ったまま、受け入れるように数歩後ろへ下がり、彼の入る場所をつくった。
「紫苑の君……また、来てしまった」
部屋に上がりながら、そう微笑みをもらす音人様。
「そなたも疲れていただろうが……、迷惑ではなかったか」
「そのようなことはありません」
眉尻を下げて言われた言葉を慌てて否定して、私は思う。
迷惑だと思うなんてとんでもない無礼だけれど、もし私がそう思っていたとしても、拒むことなど出来ないのだから。
こんなこと、一人の友人として扱えと仰せになった音人様が聞いたらお怒りになりそうだけれど。
「そうか?なら良いのだが。……私には、そなたが何か、言葉を飲み込んだように見えてしまってな」
……私の考えていることが顔に出てしまっていたらしい。音人様に問われ、はっとして首を振った。
……聞きたいことなら、ある。
音人様、どうして、今宵も来てくださったのですか……。
そんなことを考える自分に気がついて、溜め息をつきたくなった。
……聞けるはずが、ない。
──聞いたところで、私は何と答えてほしいのだろう?
不意に、自分の中に浮かんだ疑問に、自分で驚いた。
そうだ、私は、音人様にどんな理由で来てほしいのだろう?
簡単には答えが出なさそうだと判断し、音人様のお顔から視線を少し下に動かす。
……おや。
「……それは?」
私が目に止めたのは、彼の手のなかにあるもの。
花?だろうか。
「ああ、これか。来るときに生えていたのを摘んできてな。そなたに」
音人様はふっと目を細めると、それを私に向かって差し出してきた。
「私……に……?」
呆然と呟いて、まじまじとそれを見つめる。
──綺麗な、深い紫色をした、整った形の大きな花弁をもつ美しい花だ。