月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
肩と肩がぶつかるかぶつからないかの距離で、私と音人様の間に沈黙が降りた。
……何を、喋れば良いのでしょう?
まだ胸のさざめきは消えることはなく、私は音人様の方を見つめることすらまともに出来ない。
……落ち着きなさい、私。
一人で動揺して馬鹿みたいでしょうと思いながら、それでも簡単には落ち着くことなど出来ない。
彼は何事もなかったかのようにまた庭を見つめてらして……一層、自分が不甲斐ない。
「本当に……この眺めは美しい。そなたが羨ましい」
そんな中、ぽつりと漏らされた音人様の呟きに、私は少し驚いた。
「ありがとうございます……。驚きました。羨ましいと言われたのは初めてです」
会話が始まったことでようやく調子を取り戻しながら言うと、音人様は驚いたような表情を見せた。
「何故?こんなにも眺めが良いものを」
「……こんな、古ぼけた山荘を、羨ましいとおっしゃる方はおりませんでしたから」
今まで周りの女房から囁かれた言葉の数々を思い出して、私は少し笑った。
「……そうか?素敵な家だと思うが……。そなたと同じ、優しい雰囲気をしている」
「……優しい、雰囲気……」
音人様の言葉を反芻する。
胸の奥が、少しずつ温かくなっていく感覚がした。
「……そう言って下さったのは貴方が初めてです。ありがとうございます」
私はそう言って、心の底から微笑んだ。
「しかし、そなたは藤波家の者だろう。洛中(らくちゅう)に屋敷を構えていると聞いたのだが……」
その後で、小首を傾げて音人様はおっしゃられ、私は身を竦めた。
「藤波家は父の家です。私の母の実家は三笠家。家といっても、血筋はとうに途絶え、没落しておりますが」
私は平坦な声をつとめて説明を始める。
藤波家は名の知られた繁栄している大きな家、対して三笠家は、何代か前に没落貴族の烙印を押された、栄誉などない家である。
音人様はどちらの家も知っていたようで、戸惑った様子はない。
「母上は若き頃、父上に求められて婚約しました。父上は没落した三笠家ごと、母上を受け入れたようでした。ですから私は幼い頃は藤波家で育ちました。父上にも、色々な場所に連れ回されたものでした」
その頃に記憶を馳せ、懐かしい気持ちになる。
「──私が十になった頃でしょうか。父上が後妻をとりました。その頃から、屋敷で母上は邪魔者扱いされるようになりました……」
そう、話しながら、この人に自分の過去を話せていることに驚きを感じていた。
将来の皇太子である音人様とは、絶対に縁遠い話であるはず……。共感してもらえるはずもないのに、何故私は話しているのでしょう?
「──十五になったとき、ばあやと私で屋敷を出ました。この家は父上が使っていない山荘を貸し与えてくれたものです。
……ですから、父上には感謝しています。私が宮勤めを始めるときも、父の紹介があったからこそ、今の掌蔵の職につけたのですし」
「……そう、だったのか」
私が話し終わったところで、静かな声で言った。
「変なことを聞いてすまなかった。話したくないことを話させたな……」
申し訳なさそうに言う音人様を慌てて制し、私は否定した。
「謝らないで下さい。気にしておりませんもの」
「しかし……」
「良いのです。追い出されたわけではありませんし、母はまだ屋敷に住んでおりますもの」
「……そう、なのか」
私は頷き、まだ申し訳なさそうな表情が抜けない音人様を見ながら、どうにか話題を変えられないかと探す。
「……そう言えば、母なのです。私が花言葉を好きになったきっかけは」
……これなら、どうだろうか。
少しばかり変化のさせ方が強引だったかと反省しながらも、音人様は興味をひかれたような顔をされた。
「そうなのか。何故?」
「幼い頃は、父上が母上に沢山花をお贈りになっていて、母上はいつも私にその花と花言葉を説明してくれていたのです。それで」
「……なるほど」
そう言うと、音人様はじっと中庭を見つめた。
「……ここにも色々な花が生えているようだが、紫苑の君の一番好きな花はなんなのだ?」
「……私の、一番好きな花ですか?」
問われ、少し驚きながらも考える。
一番好きな花……か。
「……あれです」
少し考え、私は中庭の真ん中で咲き誇る花を指差した。
「……ほう、綺麗な花だ。見たことがないのだが、なんという花だ?」
「待宵草、ですわ」
私は、ゆっくりと答えた。
「夜になり、月が昇るのを待って咲き始めるのです。朝になるとしぼんでしまいますわ。確かに都の方では生えていないかもしれませんね……」
「夜の間にだけ咲く花、か……」
音人様が、しみじみと呟かれた。
……音人様、私があの花を好きなのは、貴方が理由なのですよ。
言葉には出さないけれど、胸のなかで呟く。
私は、月影のもとで薄い紫色に見えるその姿を見据えた。
幼い頃、音人様にもらった可愛らしい薄紫の花……。あの花がなんという名前なのか、私はまだ知らないのだけれど。
記憶の中のあの色に一番近いのが、この庭に生える待宵草なのだ。
一般的な黄色い待宵草に比べて、この庭に生える待宵草は桃色みが強い。
だから、今宵のような青白い月影のもとだと、あの日の花のような色に見えるのだ。
……そう、言葉にすることは出来ず、代わりに口にしたのは別のことだった。
「毎夜、毎夜。月とともに顔を出すのです。まるで、月があの花を咲かせるように」
……月が、待宵草を咲かせる。
自分で何となく言ったのだけれど、その表現が妙に気に入った。
夜の間だけ、咲く花。
そんな待宵草と、自分が何となく重なる。
今日の日中、私はずっと夜を待っていた。
音人様と過ごした昨晩の思い出が消えず、夜になれば会えると、わけもなくそう望んでいて……。
そして今、音人様の隣で、自然に心から微笑むことが出来ていて。
……待宵草を咲かせるのが月ならば、私をこうして咲かせているのは間違いなく。
……間違いなく、音人様だ。
「月が、待宵草を咲かせている……か」
その、音人様が呟いた。
「私は……どちらかと言うと月が、待宵草が咲いてくれるのを望んでいるように思える」
「月が……?」
しみじみと呟くその言葉の意味をはかりかねて、思わず聞き返す。
「……待宵草が咲いて、月が喜んで照らしているように、私は見えるのだ」
……音人様はそう見ていらっしゃるんだ。
私は、新たな発見をしたような気分になった。
音人様はじっと、待宵草と月を見つめている。
その横顔を見つめながら、
待宵草が咲くことで月が喜ぶのなら、やはり待宵草は、月に喜んでほしくて、月に見てほしくて咲いているようだと思った。