月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
満ちし月
「……藤侍従、またここに皺よせてる」
突然、橘左少史に眉間を小突かれて、私は目をしばたたかせた。
仕事の合間、僅かな休憩の時間である。お茶を片手に、ほっと一息ついていたときであった。
「最近何だか溜め息の回数も多いし……。何、恋患い?」
しみじみと考え込んでいた彼女は、ふと思いついたように言うと、軽く目を輝かせながらこちらに身を乗り出してきた。
「恋患い、って……」
橘左少史の勢いに呑まれそうになりつつ、彼女の勘違いに笑ってしまいそうになる。
「何よ、その顔……。それで、宮様とはどうなの?」
周りを気にしてか少し声を落とし、囁かれた。
「どうもしないわ……。言っておくけれど恋患いなんかしてないわよ。そもそも恋が出来る相手じゃないでしょう」
その様子にそれこそ、また溜め息をついてしまいそうになったけれど、しかしきっぱりとそれだけは告げる。
音人様のためにも、変な噂や誤解は招かないようにしなくては……。
そうすると、彼女は目をぱちりとさせて、不思議そうに言った。
「そうなの?宮様は恋の相手にならないほど、ひどいお方なの?」
「……違うわよ。身分が違いすぎるでしょう。恋なんて出来るはずがないじゃない」
橘左少史は眉をひそめてこちらを見、諭すように語りかけられる。
「……藤侍従、恋は出来る出来ないでするものではないでしょう。そんなもの関係なしに、落ちてしまうものを恋というのでしょう」
──告げられた言葉が、私のなかで大きく脈打った。
大切なものを見失っていた道の真ん中に、雷鳴のように鋭い光条が差したような、そんな感覚。
「……恋は、出来る出来ないでするものではない……」
彼女の言葉が、私のなかで響き渡っている。
……確かに、そうなのかもしれないとは思うのだけれど、でも。
「……それでもやはり、恋など出来ないわ……。相手は皇太子の最有力候補なのよ?」
そう、やはり、音人様は雲の上にいるようなお方だもの。
恋なんて……やはり出来ないと、してはいけないと、そう強く警鐘が鳴っていた。
「そう?想われているならばそんなの関係ないのではなくて?」
さらりと言われた言葉に、思わず絶句した。
……想われて、いるならば?
「……橘左少史、何か誤解しているようだけれど、私が想われてるだなんて……。それは絶対にあり得ないわ」
固い口調で、どうにかそれだけ言う。
……そう、想われているならばともかく、それは絶対にあり得ない。片糸の恋をしたとして、いつかは諦めなければならない時が、きっと来てしまうのだ。
……そうすれば、待っているのは苦しい想いだけで。
……せめて、音人様が皇太子でなければ、と、そんな思考も生まれてきていて、私はそんな自分に驚いている。
音人様の他にも、帝の皇子様は五人いる。正妃のお子様が音人様だから最有力と言われているけれど、でも。
……もし、音人様以外の方が皇太子に選ばれたならば。
皇子と言えども、皇太子にならなければ割と自由に過ごせると聞く。皇太子のように政略結婚をさせられることもないようだし。
そうすれば、もっと立場を気にせずに会えるのかもしれないし。
……そうすれば、もしかしたら、想いを伝えることくらいは、出来るのでしょうか?
(……何を考えているのかしら、私ったら。想いを伝えるも何も、私は音人様に恋などしていないはずよ……)
ふと冷静になって、私は盛大に溜め息をついた。
恋など……していない。そんな感情は抱いていない。
自分を見失わないように、そうやって自分に言い聞かせる。
恋情などを抱いて良い相手ではないのだし、間違っても自惚れてはいけない。そう、自惚れてはいけない。
だから……今宵は音人様はいらっしゃらない。いらしてはいけない……。
そして、これから来る一人の宵に、憂き目を感じてはいけない……。
隣では相変わらず橘左少史が、もの言いたげな視線をこちらに寄越していたのだけれど。
私はそれに気がつかないくらい、そう自分に言い聞かせていた。