月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
その後のことはよく覚えていない。
頭の中には、ずっと音人様へ歌の返事をしなかったことが残っていて。
別の事を考えようと思っても、すぐに戻ってきてしまい、気がついたら日がくれていた。
夕餉(ゆうげ)もとったはずなのに、何が出たのかどんな味だったのかすら覚えていない始末。
こんなに気にするならいっそ返事をしてしまえば良かったかとも思わないわけではなかったけれど、それではずっとこのまま、明日も明後日もうだうだと思考を垂れ流してしまうのだろう。
これで、良かったのだ。
今日で終わり。もう音人様は来ない。
初めから、会えたことからおかしかったのだもの。いい加減、あの方の優しさに甘えてはいけないの。
音人様は音人様の世界が、私には私の世界があるのだもの。それが交わることなんて、あるはずがない。
抱えているものが違うのだもの。そもそも相容れるだなんて考えてしまう方がおかしい。
音人様が何故、三日目にまで歌を送ってきたのかはわからないけれど……それだけが気になるけれど。
これで、終わり。良かったことなの。これが。
……そう、本日何度目かになるその結論を自分に言い聞かせたところで、溜め息をついた。
良かったのだと思いつつも、未練たらしく考えてしまうのは、私が心から納得出来ていない証拠。
──『恋なんて出来る出来ないでするものじゃないでしょう』。
日中に言われた橘左少史の言葉を思い出す。
その通りのようね。私はどうやら……音人様に恋をしていたのだ。
今さらになって気がついても遅いかと、私は自嘲的な笑みをもらした。
……早く、忘れてしまおう。
身分も住む世界も違う、穏やかな初恋の人。
その瞳を思い浮かべながら、部屋に差し込む月明かりから目を背けたその時──。
カサッ
小さく、けれど確かに、近くから衣擦れの音が聞こえた。
(誰……?)
恐る恐る襖の方向に視線を移すと、また。
カサッ
──確実に、何か、いる。
そう判断して、軽く混乱状態に陥ったとき、もう一度音がして障子に人影が移った。
「どなた……?」
囁くように、その人影に問いかける。
人影は一瞬動きを止めたのち、ゆっくりとこちらに近付き。
「……紫苑の君」
……そう、確かにそう声が聞こえた。
私をこう呼ぶ人は、たった一人。
「……っ」
私の喉から、声にならない声が漏れた。
うそ……。
私は目を見開いて、人影を見つめた。
「入っても……良いか?」
控えめで穏やかな、いつも通りの彼の声が聞こえる。
……人影は、紛れもなく音人様だ。来てくださったのだ、あの方は。
「どうして……」
戸惑い、喜び、後悔、焦燥……色々な感情がごちゃ混ぜになって、どうしようもなく声が震えた。
その返答を肯定と受け取ったのか、すすす……と、ゆっくり障子が開く。
満ちた十五の月に柔らかく照らされているのは、やはり音人様で。
穏やかで、優しくて、でもどこか懐かしくて、どうしようもなく惹かれてしまうそのお姿に、目の奥が思わず熱くなる。
「……今夜も、そなたに会いたくなって、来てしまった」
部屋の中には入ろうとせず、障子の場所からこちらを見据えて、音人様は静かに口を開く。
「……そなたが残って仕事をしていたのは知っていた。そのため疲れているから返歌をしなかったのもわかっていた。しかし……どうしても、会いたくなったのだ。迷惑だったか」
どこか切ないようにも見える光を瞳にたたえて、そう言う音人様に、思わず頭を下げた。
「迷惑だなんて、とんでもありません……!私こそ、返歌をしなくて申し訳ありませんでした」
喉の奥がつまって、熱い。今顔を上げたら涙がこぼれてしまうような気がする。
「頭を上げてくれ。謝ることはないのだ。こちらが勝手に押し掛けたのだから……」
柳眉をひそめておっしゃる音人様に、しかし私は何も言えなかった。
会いたいなどと思ってくれるのはとても嬉しい。自分の恋情に気がついた今なら特に。
しかし、ともすると舞い上がってしまいそうな心を、僅かな不安と申し訳なさ、後悔ががんじがらめに縛りつけ、自分がどうにかなってしまいそうだ。
私は言われた通り頭を上げつつ、しかし音人様を直視することなど出来ず、俯いたまま涙をこらえた。