月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
下弦の月



その噂が、私のもとへまわってきたのは、十五の満月から五日ほど日がたった頃だった。


「……え?」


私は思わずそんな声をあげ、その情報をもたらした橘左少史に聞き返した。


聞き返された当人は、私の反応をさも意外そうに私を見返してくる。


「だから、年が明けたら立太子(りったいし)も行われるし、これから忙しくなりそう……って。」


立太子とは、時期帝となる皇太子を、皇子のなかから正式に決めること……のはず。


「え?立太子?」


彼女とは違い初耳だった私は、またそんな声をあげて聞き返した。


橘左少史は、驚いたように眉を曲げながら私を見つめてくる。


「知らなかったの?藤侍従の方が知っていると思っていたのだけど……。てっきり、若穂宮様から聞いているのかと」


「そんな事は……」


私はようやくそう言って何とか否定をしたのだけど。


同時に、頭のなかには、あの満月の日から今日までの、宵の記憶が巡る。


──あれから毎日、音人様は当たり前の様にいらっしゃった。


もちろん歌はよこさず、玄関は通らずに中庭から。


今のところ彼が私のもとへ通っているという情報が漏れた様子はないのだが、変に勘の良い橘左少史は、私の様子からまだ会っていることを悟っていたようだった。


そして、障子を開け放し、月に照らされた中庭を眺めながら色々なことを話すというのが私たちの過ごし方だったのだが。


(そんな話、聞いていない……)


私は、胸の奥がすっと冷えていくような錯覚に襲われながら、その事実に気がついた。


そして、ふと気付く。宵の間、私たちの間に昇る話題は、いつも私のことや月や花。


音人様が、ご自身の話をすることは一度もなかったのだ。


「……こ、皇太子になるのは、正式にどの方なの?」


ぐらつく頭を押さえたくなりながらそう問うと、ことさら驚いたように橘左少史の目が見開かれた。


「それも知らないの……?若穂宮様に、決まってらっしゃるじゃない」





──その瞬間、全ての音が、私から遠ざかった、気がした。





「……そう……あの方が……」


思考はまわっていないはずなのに、私の唇はそんな意識とは裏腹に、抑揚のない言葉を紡ぐ。


「それくらいは聞いていると思っていたのだけれど……。もう二日ほど前になるのかしら。帝が正式に、時期皇太子は若穂宮様だと発表されて……。言いにくいのだけれど、今ごろお妃様や側室や更衣に至るまで、候補が続々決められている頃だと思う」


心配そうに語られる、橘左少史の言葉がなかなか呑み込めない。


(音人様が、皇太子……)


どうにか理解できた場所を、反芻してみる。


確かに、他のどんな皇子様よりも、音人様ほど次代の帝にふさわしい方はいないだろう。


きっと大変な事や苦労もあるのだろうが、心から応援したい。


ただ。


(私には……何も知らされなかった……)


そのことが、私を苦しめていた。


あんなに側にいたのに、私は何も知らない。つまりは、仕事の話が出来ない程度にしか、私は信頼されていないということ。


「そう……」


私は静かに言った。


色々な思いが、情報が、一度にせめぎあい溢れてしまいそうだった。


(……音人様の、妃候補……)


中でも、彼女が最後に告げた言葉が、私の中に大きく揺らぎをつくっていた。


いつも私が見ている穏やかな笑みを、他の誰かに向けている音人様の姿が、不意に瞼の裏に浮かんだ。


私の中で、何かが崩れるような音がした。


(わかっていた、ことなのに……)


ちょうどよくそこで休憩時間が終わり、私は橘左少史の手前表情を繕う必要がなくなったことにほっとしながら、自分の文机に戻った。


頭がくらくらとして、若干吐き気もする。けれど私は、今は自分の仕事に集中しようとした。


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