月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~



     *   *   *





その日の記憶は、ほとんどが抜け落ちていた。


私はどうやら無意識のうちに支度を整え、いつも通りに出勤し、上の空のなかで機械的に仕事をこなし、ぼんやりとしたまままた帰ってきていたらしかった。


そしてまた、自分の部屋。


(何をやっているのだろう、私……)


ここまできてしまうと、危機感や呆れを通り越して自分に笑いしか浮かんでこない。


それほどまでに……私のなかで、音人様は多くを占めているのだと、思い知らされたようだった。


(……早く、忘れなくちゃ……)


忘我の淵をさ迷いながら、それだけを思う。


このままではいられないことは、骨身に染みてわかっていた。


音人様が帝になれば、当然後宮も代替わりをする。そうすれば、後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)である私の部署、蔵司の仕事が増えるのは明白で。私が今のままでは、皆に迷惑をかけてしまう。


……なんてのは、ただの建前で。


本当は、この喪失感と苦しみから、私自身が解放されたいだけであった。


(……それも、今のままでは難しそうだけれど)


一つ、溜め息がこぼれた。


……こんなにも、大きくなった想いを、簡単に忘れる事など出来るはずがない。何をしていなくたって、ずきずきと胸が痛んでいるのに。


外はすでに、薄暗くなっていた。


(……顔を、洗ってこよう)


泣きすぎて熱を帯びている瞳を、冷ましてこよう。それで、少しは心も落ち着くはず。


それから、今日はもう寝てしまおう。昨晩のせいで寝不足だし、頭痛もひどい。


……寝て、苦しみから逃げてしまいたい。


そう考えて、腰を浮かしかけた時だった。


「──紫苑の君」


空間を満たす静寂を破る、穏やかな声。


……一瞬空耳かと思った。しかし、声は確実に聞こえた。


この声が聞こえたということが告げる事実はたった一つ。


(うそ……)


たった今浮かしかけた腰が、崩れ落ちる。


受け入れがたかった。しかし受け入れるしかなかった。──音人様が、来たということを。


(どうして……)


廻らない、廻らない。


思考がどこかでせきとめられて、頭が真っ白になる。


だって、来ないと。


皇太子のようなお方と、私など、もう会えない、会う気はない、のではなかったの?


妃候補の高貴なお方のもとへお渡りになり、愛を囁いているのではなかったの?


どうして、何故、今さら、こんな所に。


「入っても、良いか」


私の内情など知らず、いつも通りといった様子の音人様の声が響く。


どうして、どうして。


そんなにも平常でいられるのですか。


貴方にとって私は、そんなにもとるに足らない存在なのですか。


ならば……何故、そんな私のもとへ来るのですか?


色々な思いがせめぎあい、ともすると叫びだしてしまいそうだった。


ただただ、呼吸が、全身が、苦しかった。


(会えない……!!)


苦しいながらだした結論。


私は、震える唇を開いた。


「……会いとう、ございません……」


ぽつり。


紡ぎ出された言葉はあまりにもか細くて、弱々しく震えていて。──まるで、泣き声のように。


「……紫苑の君?」


一拍おいて、戸惑ったような音人様の声がした。


「……会えません。会いとうないのです……」


私はただひたすらに、拒絶の言葉を繰り返す。


そして、今にも手放しそうな意識のなか、確かに言った。


「後生ですから、お帰り下さい……!!」


──それは、懇願だった。


私の、一方的で無遠慮な、自分だけの想い。


音人様は、しばらく戸惑ったようにそこにいたけれど、やがて、その影は、静かに去っていった。


再び、何事もなかったかのように舞い落ちる、沈黙。


「……音人様……」


無我のなかで、私はそのお名前を呼んだ。


もう、限界だった。


「……音人様……っ」


昨日、あんなに泣いたはずなのに、涙など枯れたと思っていたのに、まだ、こんなに残っていたなんて。


「音人様……っ、音人様…………っ」


ひたすらに、その名前を繰り返した。


やがて、小さく漏らしていた嗚咽は激しいものに変わり。


私は、小さな子供のように、大声で泣いていた。


「おっ、音、人っ、様……っ、」


途切れ途切れになりながら、それでもまだ、名前を呼ぶ。


決して届くはずのない声だと知りながら。


──そして、涙の渦のなかで、私は決意した。


もう、音人様とは会わないと。


(……明日から、房で生活しよう……)


浮かぶ月を見ながら、かたく、そう決心した。


これだけ言ったのだから音人様は明日は来ないはず。……けれど。


こんなに思い出の染み付いたこの空間にいることは耐えられなかった。


それならば、忘れるまで、この傷が癒えるまでのあいだ、房で生活しようと思った。






……全ては、音人様を忘れるために。


< 19 / 30 >

この作品をシェア

pagetop