月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
生まれ変わりし月



     *   *   *




「……今まで、お世話になりました」


私は、文を手渡しながら深く頭を下げた。


視線の先には、どこか悔しそうに眉間に皺を寄せている右近内侍さんの姿。


私が手渡した文、それは……宮仕えを辞める旨を、書き表したもの。


「こんなに早く……昨日の今日ではないか」


もう少し待ってからでも、という彼女に、私は黙って首を振った。


どのみち、今日中にあの家を出なければならなかったのだ。私にそれを選択する権利は……ない。


「……悔しいのだ……!なぜ、君が辞めなければならない。とてもよく働いてくれていたのに、こんなにあっさり……!」


珍しく口調を荒げる彼女の姿に、胸が熱くなった。


──私などに、こんなにも、思ってくれる人がいる。


涙をこらえて俯きながら、もう一度深く頭を下げた。


「……本当に、ありがとうございました……」







部屋を出ると、そこには橘左少史の姿があった。


「藤侍従……」

「橘左少史……」


お互いに、言葉が詰まってしまって、会話が続かない。


「お父様のこと……残念ね。でも、こんなに早く……」


私は首を振った。


「仕方ないわ。どの道、私は三笠家の者でしかないんだもの」

「でも……」


私よりも、悲しそうにしてくれている親友の姿に、少し元気をもらう。


宮仕えを始めた頃からの同期で、私の生まれなどを気にすることなく接してくれた、唯一の信頼できる友。


同い年とは思えぬほどに頼りになっていて、何度助けられたことか。


「ありがとう、橘左少史」


私は万感の想いでそう告げた。


「藤侍従……。いつか、絶対に、会いに行くわ」

「……橘左少史……」


会いに行く、なんて。


彼女らしくもない現実的ではない言葉に、思わず泣きそうになった。


これから尼寺に入れば、俗世と関係を絶ち、もちろん都に出ることなど許されなくなるだろう。


彼女も、女房の身ではそんな所まで会いに来るのは難しいのだろうし。


……でも、それを否定する余裕も、私にはない訳で。


「……そうね、いつかまた」


私は、薄く微笑んで、その言葉に同調した。


“いつか”。


信じていれば、それだって起こるのかもしれない。


これからの道に、少しは希望だってあるのだと、私も思いたい。


「……ほら、もう行って。仕事に戻らなくてはならないでしょう」


別れは惜しいけれども、そう彼女を促した。


このままずるずると、ここに留まるわけにはいかない。


「……お元気で」

「……ええ、そちらも」


最後にもう一度、視線を合わせる。


橘左少史はくるりと踵を返して、仕事場へと戻っていった。


さよなら、私の、唯一の友。


「……ふう」


大きく、息を吐き出した。


やり残した仕事は、あと一つ。


私は懐から、淡い黄色の花びらのついた栞を取り出した。


──自分自身に、けりをつけにいく。





* *





あれからあと、ばあやの言葉を巡ってなかなかに寝付けない時間を過ごした。


音人様を、傷つけてしまったこと。そして、そのままにしていなくなるということ。


そんなこと、自分では全く気付いていなくて、そんな自分にまた呆れた。


それでも、一つ確かなこと。


このままにして往くわけには、いかない。


音人様と過ごしたことは、私の人生の中でとても大きな幸せな時間なのだ。


そんな彼と、こんな形で別れたかったのではない。


何より私は、音人様に幸せになってほしいのだから。


──感謝を伝えたい。


そう思ったら、何をするから自ずと決まった。


何を伝えたいかが、すらすらと心の奥から出てきて、戸惑うほどだった。


したためた思いが、彼に届くのかどうか。


──それは、彼が決めること。


私が出来ることは、これをただこうして、自分の房に残すことだけ。


私が辞めたという報せは、時期にその耳に入るはず。


もし……もしも、音人様が私のことで気に病んでいるのであれば。


この房に残した文が、貴方のもとへ、届くはずだから。


(これで、大丈夫……)


私のことなど気にも留めないのであれば、この文は捨てられてしまうのだろう。


それでもまた、良いのだ。


私は音人様が幸せであるならそれで。


……本当は、迷った。


秘めた想いを告げるべきか、否か。


……でも、止めた。


そんなことをしては、音人様の心に足跡をつけていってしまうことになる。


だから、後腐れなく離れたかったから。


──代わりに、待宵草の栞を託した。


全く、この花は……どこまでも私と似ている。


夜になると、月に咲かせられるように顔を出すところも。


その、花言葉さえも。


……だから、良いのだ。


音人様はこの想いに気がつかなくて良い。


これは、私の中での小さな区切り。


よろしくね、待宵草。


……私は、ゆっくりと自分の房をあとにした。


門までの道を歩きながら、これまでの思い出が、浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。


今ごろは、お母様も合流しているのであろう。久々に会うのがこんな形になるなんて、思ってもいなかった。


お母様に、なんて声をかけたら良いのだろう。


愛しているひとを亡くして、すぐにその家からも見捨てられるなんて。


そう……母は、父を愛していたから。


「……わあ」


門についた私は、思わず声をあげた。


無論、そこで待っていた牛車を見て、だ。


それは、今まで私が乗っていたのとは比べものにならぬほどに、豪華だったからだ。


(藤波家が用意してくれるとは言っていたけれど……これほどまでとは)


いくら、三人とその荷物を運ぶとは言え。


出家しようという人物に、しかもそれを強要させておいた人間が、こんなものを用意するなんて。


飾り立てられた出発を用意し、没落貴族を厄介払いするというのか。


(なんて皮肉……)


ふっ、と自嘲的な笑みがもれた。


……しかし、こんなこともこれで最後。


いやな俗世から離れられるのは、それ自体は悪いことではないのかもしれない。


……いいや、俗世にも驚くほど真っ直ぐな目をした人もいるか。


(音人様……)


こんな時にまで、また思い出してしまう自分に笑ってしまう。


けれど、やはりまだ、忘れるには難しすぎるのだ。


あの、柔らかい微笑みが大好きだった。


これからも、笑っていてほしい。心を痛めた表情など、していてほしくない。


(……音人様、どうかお幸せに)


馬車に乗り込みながら、私は想った。


願わくは。


あの笑顔を、もう一度──……。


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