月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
見えぬ月影──音人
どうしたものか……。
「──様」
私は一体、それほどまで追い詰めてしまうような、何を間違えたのだろう?
「──宮様?」
もう、弁明することも叶わないのだろうか。
「──若穂宮様!」
「……ああ、すまない」
強く名を呼ばれ、私はようやく意識を思考の淵から掬い上げた。
「ええと……何だったか」
しまった。すっかり聞いていなかった。
私の様子を見て、先ほどからずっと話しかけていた張本人、直属の部下にあたる石原清輔(いしはらのきよすけ)、が溜め息をついた。
「……藤侍従と言いましたっけ。あの方の事を考えておられたんですか」
「…………」
あっさりと言い当てられてしまっては、返す言葉が見つからない。
「珍しいですね、本当に。貴方が女性にうつつを抜かすなんて……」
「……すまない」
そう言われるのが無理もないほどに、今日の私は仕事に集中出来ていなかった。
理由は……昨晩の、あの声が忘れられないからだ。
『私のことなど、覚えている価値もありませぬ……』
そう、私を拒絶するようでいて。
『どうか……』
どこか、懇願するような。
──苦しそうな、泣くのを堪えているような声が。
頭にこびりついて、消えてはくれない。
石原は、もう一度溜め息をついた。
「どこかそこまで気に入ったのです?確かに可憐な女性でしたが、女官のような華やかさはありませんし、何より、彼女の家柄は……」
「家で女を好むわけではない」
何が言われるかを瞬時に悟り、私は石原の言葉を遮った。
三笠家、呪われた家、没落した不幸な血筋──……。
今まで、どこに行ってもそう扱われていたのだろう。彼女自身が、自らをそう表すかのような節もあった。
しかし、そんな禍々しい評価を覆すほどの、彼女のもつ明るい力に、どうしようもなく惹かれた。
……わかっている。自分のこの地位が、彼女を遠ざけていることも。
私が近付こうとする度に、彼女は迷い苦しみ、離れていくのかもしれない。
それでも……それでも、昨日ようなまま、終わらせてしまって良いのだろうか。
何かが、何かが引っ掛かる──。
「……どちらにせよ、皇太子となる貴方は自由ではいられない。早く忘れるべきです。貴方にとっても、ここを離れるあの女性にとっても」
再び思考の網を巡らせていた私は、石原の忠告を聞き流そうとして──はっと顔をあげた。
……今、何と言った?
「あれ、ご存知ありませんでしたか?藤波家当主が亡くなられ、後ろ楯をなくされた藤侍従さんは、今日中にでもこちらを辞めるのですよ?」
私の問うような視線を受け、石原はすらすらと話してくれる。
……何だって。
「紫苑の君が、辞める……?」
一瞬、全ての音が聞こえなくなった。
……そして、繋がる。昨日の態度のわけを。
『後生ですから……』
──その、哀願の意味を。
「あっ、若穂宮様、どちらに行かれるのですか?」
殆ど無我夢中で立ち上がると、後ろから焦ったような石原の声が聞こえてきた。
……構ってなど、いられるか。
私は、石原を取り残したまま、後宮の方向に向かう。
……彼女の、紫苑の君の、房のもとへ。
いくつもの渡殿のを通り抜け、何度か呼び止められもしたが、気に留めぬ。
──そうして辿り着いた、その場所。
(遅かったか……)
思わず舌打ちを打ちたくなるほどに、そこはもぬけの殻だった。
彼女がいた形跡すら、すっかり残されていない。どうやら荷物も処分したようだ。
恐る恐る、足を踏み入れる。
──ほんの二、三日前まで彼女が過ごしていたという、しかしもう二度と足を踏み入れることはないのだろう、その場所へ。
「紫苑の君……」
声が漏れた。
もう、会えることはないのだろうか。
追わない方が、彼女にとっても良いのだろうか。
自信も元気もなくして、思わず壁に手をついた、そんな時……。
(……おや?)
不意に、目に留まったもの。
文机に残された、真新しい白い封筒。
……見なければ、と、思考を越えた何かが言っていた。
私は吸い寄せられるようにそれに近付くと、それを手に取った。
誰かにしたためた文、だろうか……?
盗み見るのはまずいとか、そんなことが思いつくより先に、封を開いていた。
(……!これは……)
一目見て、私は言葉を失った。
──何故なら、それは私に宛てたものだったのだから。
そこには、彼女らしい細い繊細な字で、こうしたためられていた。
『親愛なる若穂宮様へ
突然、こんな形で別れをつげることになってしまい、本当に申し訳ありません。
貴方がこれを読むことがあるのなら……その時は、私はきっと、同じ空のもとへはいないのでしょう。
この手紙を見つけてくれるほどに、私を気にかけて下さって有り難う御座います。
そして、どうか私の無礼をお許し下さい。
貴方に、身分をわきまえぬ振る舞いを、言動を沢山致してしまいました。
しかし信じてください。私は、貴方を疎んで、あのようなことを申したのではないのです。
会いたいと言ってくれた時も、断ったりなどしてしまい、本当に失礼致しました。
けれど、これだけは誠です。
私にとって、貴方と過ごした時間はかけがえのないものでした。
花のことや庭のこと、どんな小さな会話も、とても楽しかったのです。
私のような者にも、貴方は優しく接して下さって……感謝してもしきれません。
ですから、どうか。
私のことで、気を病んだりするのはお止めください。
私に貴方が幸せをくれたように、貴方には幸せでいてもらいたいのです。
皇太子になること、聞きました。おめでとう御座います。
私は女房として、貴方の力となるべくお仕えすることは出来ませんが、きっと素晴らしい働きをなさるのでしょう。
ですから、どうか私の事は忘れて。
妃となる人と、どうか幸せにおなり下さいませ。
遠くから、貴方の幸を、お祈りしています。
友人の、藤侍従より』