月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
読み終えて、声が詰まった。
丁寧な字で綴られた、私を案じているのが伝わってくる文章。
父親が亡くなり、自分が大変な時に、他人の幸を願う、とは……。
「友人の、か……」
最後の行に書かれた言葉をみて、つい呟きがもれた。
宵に逢っている間も、夜がふけると無防備に眠ってしまうし。
意識されていないのかと沈むこともあったのだが……。
やはり、最後まで、私の片想いだったようだ。
でも、それでも。
彼女が追い出されるように内裏を辞め、苦労していくさまを黙って見ているわけにはいかない。
彼女が私の幸を願うように、私も彼女が幸せであることが願いなのだから。
文を大切に握りしめ、私はどうしたものかと思案する。
ちらつくのは、一抹のためらい。
私が──この地位という力を使って、半強制的に受け入れることは出来る。
しかし、それでは皇族という鎖に、彼女のことを繋いでしまうことになるのでは。
今このまま、町に出て苦労したとしても、巡りめぐって他の男と結ばれることもあるかもしれない。そうすれば。
そうすれば……その方が、彼女にとって幸せになれる道なのではないだろうか。
それに、彼女は私のことを友人と思っているようなのだし。
そんな思考を何度か繰り返し、思わず溜め息が出てしまいそうになった時──。
「……?」
不意に、手にしていた封筒に違和を感じた。
おもむろに傾けてみると、微かに紙と紙が擦れあう音。
口を開けて取り出してみると、仄かな黄色が顔を覗かせた。
(これは……栞?)
四角く切られた少し厚い紙に、黄色い花弁の可憐な押し花が貼り付けられている。
彼女からの贈り物、ということだろうか。
私はじっと、押されている花を見つめた。
淡い黄色の花弁、細くギザギザした葉、首を伸ばしたような長い茎。
何度も見てきているからわかる。
この花の名は──。
「……待宵草」
紫苑の君が、一番好きだと言っていた、あの花。
君が語る待宵草を眺めている振りをして、本当は楽しそうな君の横顔に見とれてしまっていた、あの夜のことを思い出す。
その、待宵草がここにある。
『花など、安易に贈るものではありません──』
彼女の言葉が蘇る。
花の印象や、込められた花言葉を大切にしている彼女らしい言葉。
その彼女が私に贈った、この待宵草の栞。
その花言葉は、あの晩の次の日に、気になって調べてあった。
それは──『無言の愛』。
そう、理解した瞬間、頭の中で何かが爆発したような感覚があった。
……いや、そんな、まさか、しかし──。
いくつもの疑問詞が飛び交い、混乱する。
彼女のことだ、花言葉を知らずにこのような行動をしたということは、まずあり得ない。
なら──意図的に贈ったと?
待宵草を異性に贈ると、それは『愛する人への贈り物』となることくらい、彼女は知っているはずだ。
──「口では言えませんでしたが、貴方のことを、お慕い申しております……」
そんな、彼女の声が耳許で聞こえたような気すらした。
私は、全てを悟った。
彼女がこの花に込めた想いを。昨晩の震える声の理由を。
そして──その上で、姿を消して私から離れようとしていることを。
嗚呼、決して自分からは口を開かず、自分の一番好きな花に届くと限らない想いを託して身をひこうとするなんて、君はどこまでも君らしい。
──しかし、その覚悟、私は受け取ることはしない。
どんなに身をひこうとも、私から離れようとも。
必ず私が、その手を捕まえて……もう、離さない。
「紫苑の君……」
自然、口が名前を呼んでいた。
彼女がここを出たのはどのくらい前なのだろう?どこへ向かうのだろう?
いずれにせよ……今なら、まだ間に合う。
私は、栞と手紙を胸に抱き、彼女の房を後にした。
何歩か歩くうちに、段々と歩調が速まっていて、気がついたら駆け足になっている私がいる。
向かうのは飛香舎の方向。確かあの裏に、私が求める花が咲いていた。
彼女から私へ贈るが待宵草ならば。
私から彼女に贈るはただ一つ。
それを摘んだら、厩舎に行って愛馬に乗ろう。
正しい方向はわからない、けれど。
風が、空が、君のもとへ私を運んでくれる気がした。
焦る気持ちは、止まらない。
……やはり、私をこうまでかきたて、走らせるほどの存在は、後にも先にも彼女一人だ。
決して、決して逃がしはしない。絶対に。
急げ、間に合ってくれ。
──私のこの手が、彼女に永遠に届かなくなってしまうその前に。
いつの間にか、私にまとわりついていた躊躇いは、消し飛んでいた。