月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
笑みかける月──弥生
久々に会った母は、記憶の中の姿よりも随分と細くなっていた。
細くなったというよりやつれたという表現が似合うような様子で、心労がたたったのかもしれないと心配になる。
最愛の夫を亡くした傷も癒えぬまま、藤波家からは追い出されてしまい、ゆっくりと悲しむ時間もなかったようだった。
牛車の中では、話題は出なかった。
母もばあやも、そして私も、揃って気詰まりな沈黙を抱え、車内は重苦しい雰囲気で満ちていた。
内裏を発ってから半刻ほど過ぎ、都らしい街並みからどちらかというと田舎らしい様子へと移っていくのが目に見えた。
もう二度と、戻ることはないのであろう道。
まだ鮮やかな記憶は、褪せていくことはあっても、塗り替えられることはないのだろう。
──もう二度と、会えぬ人。会わぬと決めた人。
溜め息を押し殺し、出来る限りの吹っ切れた気分で空を見上げる。
けじめはつけたのだもの。もう未練はない……と言い聞かせる。
雲一つない青空は、私をやさしく見守っているようで……現実は、その蒼さで突き放しているようにしか思えなくて。
──私の正直な心根は、まだ吹っ切れられるほどあの方を忘れられていないようだ。
遠くから響いてくる馬の足音に耳を傾けながら、空から視線を外した。
「……なんだか外が慌ただしいねえ」
足音はばあやにも聞こえていたらしい。ふと呟くようにそう言ったのが聞こえた。
……確かに、この景色には似つかぬほどに急いているように聞こえたり──。
「──そこの牛車よ、止まりなさい!」
と、突如そこに響いた声に、私たちは顔を見合わせた。
「私たちのこと……?」
「他に牛車なんて通っていないようだし……」
「なんだい、何をしたと言うんだね」
牛飼い童(うしかいわらわ)たちも戸惑っているようで、少し、牛の歩調が乱れる。
やがて、完全に歩みが止まると、馬の人物は車の横まで来て、止まった。
「何かご用でしょうか……?」
童の一人が、恐る恐るという風に尋ねている。
「そなたたちを怪しんでいるわけではない。捕まえて、尋問などしようとは微塵も思っていないゆえ、安心せよ」
その、降ってくる声に懐かしい響きを感じ、私は思わず顔をあげた。
この声は……!
しかし、浮かんだ答えを即座に否定する。
そんな筈はない。だって、ここにいるなんて絶対にあり得ないじゃない。ただの声のそら似だわ。
人物の声は続く。
「私はただ、中にいる人物に用があるだけなのだ」
そうすると、私たちでなく童たちの方に動揺した空気が走った。
当然だろう。彼らは身寄りのない出家する没落した貴族を乗せていると思っているはず。まさかそれに用があるなど、思いもしないはずだ。
「お言葉ですが……こちらにいるのは、出家する者どもだけにございます。恐れながら、人違いかと」
すると、馬の人物の纏う空気が一変した。
「……出家、だと?」
落ち着いた声音が消え、戸惑ったような、焦ったような──そう、昨晩別れ際に聞いたようなものになる。
知らなかった、のだろうか。
出家をしたら、会うことなど永遠に叶わなくなる。……それを、寂しがってくれているのだろうか?
そんな思考はしかし、人物が次に発した言葉によって寸断された。
「……紫苑の君!」
思わず、身体が跳ねた。
全身が、震える。今にも叫びだしそうになる。
──嗚呼。
音人様が、いる……!
身体中が、歓喜している。
そのもとへ飛び出していきたいと、もう一度だけ、顔を見たいと本能が叫ぶ。
血潮が、逆流しているような状態に陥りながら、戸惑う自分もまたここにいた。
もう、あの手紙を読んでしまったの……?いくら何でも早すぎる。
私の計算だと、明日の夜くらいに届くはずだったのに。
その頃には、とうに出家していて、その力の及ばない場所にいるはずだったのに。
ぐい、と袖を引っ張られた。
ばあやが、顔を覗き込んでいる。
どうするんだい、とその目が言っていた。
私ははっとして、言った。
「……人違いです」
呟くような声は、近くにいた童にしっかり届いたようで、そのまま彼に伝えられる。
会ってはいけないと、強く思った。
ここで会ってしまっては……せっかくの、決意が揺らぐ。
愛して、しまったからこそ。
自分の中のその愛に、気付いてしまったからこそ。
──それのない場所に飛び込もうというのは、身を切るような痛みを伴う。
「……ならば、顔を見せてくれ」
音人様は、なおも引き下がらない。
私が強く首を振ると、それを見た母上が口を開いた。
「……それは、出来ません」
よく通るその声は、私のそれより少し低い。
これで、人違いだと信じてくれるか──。
そんな、楽天的な思考は、続いて叫ばれた音人様の言葉によって掻き消された。
「──弥生!!」
弥生、と。
私の幼き名前を。
──昔、貴方に教えた名前を。
「……どう、して……」