月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
私の口から、想いが零れる前に。
ばあやが、簾(すだれ)を持ち上げ、こちらの顔が見えるようになった。
母上が、私の背中を軽く押した。
呆然とする童などに目もくれず、私はただ一点を呆然と見つめながら外に降り立った。
きっと今、泣きそうな顔をしているのであろう。
そこには、見慣れたその人がいて。
顔を、表情を見るだけで、いとおしさが胸の奥から込み上げてくる。
音人様もまた、馬から飛び降りた。
少しほっとしたような、しかし、どこか泣きそうな顔で、こちらをじっと見てくる。
──こんな顔、初めて見た。
「……やっと、見つけた」
音人様が口を開いた。
「君は何故……すり抜けて、遠くに行ってしまうのだ?」
──音人様。
そんな切なげな声を、出さないで。
涙が溢れてしまいそうになって、私は唇を噛んだ。
何も言えない。
動けない。
音人様に、自由を奪われてしまったよう。
私は竦んだように立ち尽くしたまま、音人様が一歩、また一歩と近付いて来るさまを見ていた。
こちらに、腕が伸ばされて。
視線が、絡み付くように重なって。
お互いに、何も言葉は発しない。
──気がついたら、私は音人様の腕に包まれていた。
音人様の鼓動が、すぐ近くに感じられる。
その温かさから、溢れるような安心感が込み上げてきて、私は今度こそ涙をこぼした。
「音人様……」
溢れる想いや、訊ねたいことは沢山あったのに、そう掠れた声で名前を呼ぶのがやっとで。
すると音人様は、少し驚いたようにして、それから抱き締めていた腕の力を緩めた。
二人の間にわずかな間が出来、間近で視線が交わる。
「……ようやく、名を呼んでくれた」
泣き笑いのような顔で、音人様が言う。
「……今まで、結局ただの一度も名を呼んでくれたことはなく……挙げ句の果てに“宮様”などと言うし」
そう言われて、はっと気がつく。
逢っている間、気恥ずかしさや切なさもあり、一度も名で呼んだことがなかったのだ。
つまりは、これが初めてで。
私は胸がつまって何も言えなくなってしまい、言葉を止めた音人様と、しばし、無言で見つめあう。
視界の全てに、音人様がいる。
その瞳から、目が逸らせない。
視線が、熱い。
──お互いの瞳の奥に宿る感情が類似していることを、もう悟っていた。
そのことに喜びを感じる暇もなく、後から後から愛しさが込み上げてくる。
再び、距離が縮み。
当たり前のように、唇が重なった。
何も考えられない。
あるのはその感覚と、触れたところから溢れ出す甘い痺れ。
──永遠かとも思えるほどの一瞬のあと、唇が離れた。
「愛している」
耳許で、そう囁かれた。
それだけで私の頭は染められたように真っ白になり。
その声も、視線も、温もりも、全てがいとおしい。
そして不意に音人様は、懐から何かを取り出す。
私に捧げるかのように向けられた、それは。
「──っ!」
見紛うことはない、あの……。
──あの、幼き日に音人様から頂いたものと、同じ花だった。
「そなたに似合いそう」と言われた、淡い紫色の可憐な花。
あのときは何の花かわからなかったけれど、今なら分かる。
この、花の名は。
「紫苑の花……」
──どうして、思い出さなかったのだろう。
音人様はいつも私を、『紫苑の君』と呼んでいたのに。
あれは、『紫苑色の衣を着ていた君』という意味ではなく。
『幼き日に紫苑の花をあげた君』という意味だったのだろう。
私は思い出すまでに時間がかかったけれど、音人様はすぐに思い出したということ……?
感極まって何も言えない私を見つめ、柔らかく微笑みながら音人様は言った。
「……そなたのことを、忘れられるわけがなかろう?」
「……っ」
幼き日の、思い出も。
『私のことなどお忘れ下さい』と懇願した、昨晩の記憶も。
全てが絡めとられて、愛しさに形を変える。
「記憶の君も、内裏で初めて会ったあの日も……君の視線に、射抜かれたかと思った」
「私の視線……?」
音人様は淡々と語りながら、指で私の髪をそっと梳いていく。
「私の方を、それほどにまっすぐに見てくれるのは、そなただけだ」
それを、言うのなら。
音人様のまっすぐな眼に……私が、射抜かれていました。
「……だから、そなたが日に日に、私と目を合わせてくれなくなり、とても辛かったのだ」
「……はい」
確かに、報われぬ想いが苦しくて。
だんだん、音人様を、まっすぐ見れなくなってしまっていた、と私は反省した。
音人様は、いつも私を見てくれていたのに。
「紫苑の君……いや、弥生」
「はい?」
囁くように名前を呼ばれ、心が跳ねた。
「この花を……受け取ってくれるか?」
こころもち緊張した面持ちで、まっすぐに、紫苑の花を差し出される。
そして思い出されるのは、いつか私が言った言葉。
──『花など、安易に贈るものではありませぬ』
──『花言葉というものを、ご存知ですか』
その音人様が、私に紫苑の花を差し出している──。
「音人様……」
私は、呆然と目の前の花を見つめた。
紫苑の花言葉は、いくつかある。
『追憶』『思い出』──どれも、幼き日に面影を残す私たちに、これ以上ないほどに合っていると言える。
そしてあと一つ──『君想う』。
私が待宵草に託した想いと同じ種類のそれを、音人様から託された、この紫苑の花──。
私はもう一度花をじっと見つめ、それから音人様に視線を移した。
心は、どうしようもないほどに歓喜する。
しかし……。
「──なりません」
ぎゅっと目を瞑り、紡がれたのは小さな拒絶。
「聞いたでしょう……?私はこれから尼になる身です。貴方と並ぶには余りにも……余りにも、堕ちすぎた血筋なのです」
声が、震える。
後ろに、足を一歩引いた。
もう一歩。
……音人様との間が、離れていく。
「……弥生!」
引き留めるように呼び止められるも、足は止めない。
その声が、必死な表情が、私の心を蝕む。
今にも涙があふれんというその瞬間に、私は後ろを向いた。