月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
駆け足で牛車の方へ行き、乗り込もうとすると、始終を見守っていたばあやと母上が心配そうに私を覗き込む。
「……良いのかい」
ばあやが言った。
「……良いの。仕方ないもの。……私が三笠の血をひく以上」
私の言葉に、母上が首を振った。
「三笠家ではなく……貴方自身の答えを出しなさい。弥生」
予想だにしない厳しい響きに、私は動きを止めた。
私自身の答え、なんて……そんなもの、決まっている。
けれどそれを言ってしまったら……三笠家は、音人様にとって重りになるだけであって、決して役に立ちはしない。
私は音人様の重りになんて、なりたくない。
……だから。
私は息を吸って、それから嘘を吐く。
「……身分が違う人のもとへゆく苛酷さは、母上を見ていればわかります。私は……穏やかに繰らしたいのです」
「……弥生」
母上が、もう一度名を呼んだ。
「……ならば、何故、貴方は涙を流しているの?」
「え……?」
私は、恐る恐る自分の頬に手を当てた。
……確かに、濡れている。
自分でも気がつかないうちに……涙は正直なようだ。
でも、でも……と、私は首を振る。
「……どうして貴方は、そう自分の先を悲観するの?本当に好きなのなら、身を委ねれば良いじゃない」
母上は、溜め息を洩らしながら、言った。
身を、委ねる……?
「私だって、貴方の父上と一緒になれたのだもの。貴方が結ばれる道が皆無なんてことはないのよ」
「……」
母上の視線から逃れるように、私は俯いた。
母上は、父上が全てを引き取るという形で三笠家ごと結ばれる道を選んだ。
それはとても幸せなことだけれど、父上はそのあと、三笠家と縁をもつとして立場が悪くなったこともあったらしい。
やはり三笠家という烙印は、どこにいても……重荷にしか、ならないのだろう。
ならば。
「……言ったはずです。私は、音人様の重荷になるようなことはしたくない」
「…………」
「音人様が幸せであることが、私にとっての幸なのです」
きっぱりと。
変わらぬ想いを口にする。
貴方が笑顔であるならば。
私もきっと、どこかで笑えるはずだから。
それに対して、母上が口を開こうとした、それより先に。
ふわり。
温もりを、肩に感じる。
「……ならば、私の幸を打ち明けよう」
耳に届いた穏やかな声。
音人様が、私の肩を抱いている。
皆が見守るなか、その口が開いた。
「──私の幸は、そなたがそばにいること。そなたが横で微笑んでくれること。そなたと他愛ない時を過ごすこと。
……そなたさえいれば、他には何もいらない。それが私の幸だ」
音人様の、幸……。
何も言えぬ私をよそに、音人様は母上をまっすぐに見つめた。
「お願いがあります……三笠家現当主として、聞いて頂けますか」
母上は、少し意外そうに目を見張り、それから頷いた。
「……何でしょう?」
……私は、何も言えない。
何をするつもり……?現当主としてだなんて。
音人様は、ゆっくりと言う。
「私は、三笠家の姫君である弥生殿を、我が妻にしたいと強く望んでおります」
「……!」
今度は私が目を見張った。
突然、何を言い出すの……?
「そちらにとっても大切な一人娘であることは承知しておりますが……共に歩んで行きたいのです」
その改まった口調を黙って聞いていた母上は、暫くして「……そういうこと」と悟ったように呟いた。
そして、私もはっとする。
帝や皇太子から望まれて婚姻する場合……、その女の家には、皇家から望まれたという“箔”がつく。
母上は、父上に三笠家ごと引き取られた。
それによって、確かに一時は強固な守りを得たのだけれど。
所詮は他者に依存していただけのこと。だから今、三笠家はこのように脆弱なのであろう。
それを打破するには、傘下に入るのではなく、自らが強くなることが先決。
皇家お墨付きの箔がつくことは、まさに格好の機会ということなのか。
もしかして……私や、三笠家を守るために、こんなわざとらしいほど下手に出る言い方を……?
母上の反応に、音人様は少し頷いたように見えた。
「……そちらの要望は受けとりました。私どもからの望みとしては……弥生を、必ず幸せに。それが出来ぬのなら、この件は受け入れることは出来ませぬ」
母上が、優位にたつ。
あくまで、音人様が頼みこんで承諾してもらうという形にしなければならないから。
「もちろんです。我が何に代えても、必ず弥生殿を幸せにしてみせます」
音人様は、あくまでも丁寧に。
──やがて、母上がにこりと微笑んだ。
「……こちらはわかりました。しかし、あとのことは、弥生自身が決めることでございます」
音人様は、ほっとしたように頭を下げた。
一瞬、母上と、その横にいたばあやと視線が交わる。
──『大丈夫』、と、励まされたように思えた。
「……弥生」
音人様に名を呼ばれ、私はゆっくりと振り向いた。
目の前いっぱいに、再び紫苑の花が広げられる。
「──私が幸せであることが、そなたの幸であると言ったな?」
「……はい」
穏やかで、でもどこか焦ったような声に、どうしようもなく胸が高鳴る。
「私の幸せとは何か……先ほど言ったのを覚えているだろう?」
「……はい」
私は、もう一度頷いた。
「ならば……私の幸を、叶えてはくれぬか。私の幸に、なってはくれぬか」
音人様の声が、近い。
「そなたが……そなたこそが、私の幸なのだ。……この花を、受け取ってくれ」
……私、もう、迷わなくて良いのでしょう?
音人様に全てを任せてしまって、良いのでしょう?
この人に……頼ってしまって、良いのでしょう?
一瞬のうちに、様々な想いが去来する。
まるで、溢れてしまいそう。
……そして、永遠のような数瞬のうち。
「……はい、喜んで」
私は、その花に手を伸ばした。
……もう、迷わない。
まっすぐ、音人様のもとへ。