月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
* *
そのあとの、音人様の嬉しそうな表が、目から離れない。
何も言わず、また強く抱き締められて。
……もう、私はこの人から離れられないな、と思った。
ばあやと母上も、「幸せになりなさい」と言ってくれて。
それから、私たちが行く予定だった寺社に事情を説明して来ると言って牛車に乗って出発して行った。
私も行こうと思ったのだけれど、「あとは私たちに任せなさい。お前はあの方の側に」と断られてしまった。
少し申し訳ないけれど、もう離れたくないと思っていたので正直嬉しい。
音人様も音人様で、父親……つまり、現帝に話さなければならなくて、私も連れて行きたいという。
もし認めてもらえななかったら……と不安がよぎる私に、「大丈夫、私を信じろ」と言ってくれた。
それだけで、全てが大丈夫だという強い安心感が生まれるから不思議。
そして、今は二人、馬の上に。
牛車は行ってしまったし、音人様も単身で来られたようで、残されたのは毛並みのいい栗毛の馬が一頭のみ。
距離があるので歩いていくわけにも行かず、策として音人様が出されたのが二人で馬に乗るというものだった。
私はもちろん馬になど乗ったことはないし……無理だと思ったのだけれど。
なんとかして乗せてもらい、ゆっくりゆっくり、進んでいる。
高い。怖い。──けれど、すぐ後ろに音人様がいるだけで、言い様のない安心感が生まれてきて……大丈夫だという気がしてくる。
「……音人様?」
もう一度、名を呼ぶ。
「……何だ?」
当たり前のように帰ってくる返事がいとおしい。
「私にとって……貴方は月のような人なのです」
薄暗くなってきた空を見上げ、私は口にする。
そこには、幾つかの星明かりとともに、細い月が。
昨日は新月だったので……生まれ変わった、新たな月の光。
まるで微笑みかける口元のような、細い弧が描かれている。
「……月は、ああして夜空を照らしてくれるでしょう?闇を歩く人が、迷わぬように」
ぽつり、ぽつりと話す。
音人様は、黙って聞いている。
「私も、何度も迷いかけて、でもこうして貴方が導いてくれたお陰で、ここにいるのです」
──もう、迷わない。
音人様という光を、心から信じていられるから。
「……私はもう、月の光を見失うようなことは致しません」
告げたのは、小さな誓い。
すると、後ろから腕が伸びてきて……ふわりと、一瞬抱き締められた。
「……私が、月か」
そっと、耳元で呟かれて。
「……いつか、話したことを覚えているか?」
ふと問いかけられて、しかしどの会話のことを言っているのかわからず私は首をかしげた。
「私が月だと言うのならば……そなたは、あの待宵草であろう」
「……待宵草……」
すぐに、何の話か思い至る。
あの、音人様が桔梗の花を下さった晩のこと。
私が『月が待宵草を咲かせる』と言い、
それに対して音人様が、『月が待宵草が咲くことを望んでいる』と表現された、あの会話。
……その、待宵草が私だと言う。
私の頬が、朱に染められていく。
「……月明かりは、今宵もあの庭を照らしているのだろうな」
「……はい」
お互い、囁くように言葉を投げる。
「あの待宵草は、これからも咲いてくれるだろうか?」
ぽつりとこぼされた音人様の問いに、私は確かな確信をもって頷いた。
「……ええ、咲くでしょう。月が望んでくれるのならば、精一杯に、大きく先続けましょう」
「……そうか」
くすりと音人様が微笑まれたのがわかった。
私も、これ以上ない幸福感に包まれながら、微笑みを返した。
──月下、とある山の一角にて。
今宵も、小さな花が顔を覗かせる。
可憐に、誇らしげに。
その花弁を精一杯広げ、待宵草は咲き乱れる。
──とこしえに……。
─完─