月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~
ええと……内侍司の場所は……。
確か、ここから少し離れていたのだっけ。……そうだ、渡殿を通って、左に行くのだった。
すぐにそちらに方向を変え、急ぐものの。
重い十二単を着ていては走ったりなど出来ぬもの。どんなに急いていても、のんびりとしか進めない。
(早く……)
懸命に足を動かすものの、焦りは募る。
やがて渡殿にさしかかり、左に曲がる──。
「……!!」
体をひねった所で、目に入ったものは。
「……おい!控えよ!無礼な!」
護衛やお付きなど、何人もの人を従えた、行列。
(しまった……!!)
事情はよくわからないけれど、このような行列を正面から阻んでしまうなんて。
「失礼致しました……!」
そう言って、慌てて頭を下げたところで。
──バサッ……
手元が滑り、まずいと思った時には、運んでいる書が宙に舞っていた。
「……申し訳ございませぬ!!」
そう叫び、急いでかがんで書を集める。
どうしましょう、どうしましょう……!
「なんて無礼な……若穂宮(わかほのみや)様の御前(おんまえ)で……!」
一番の側近らしき人が言った。
若穂宮様だなんて、そんな、帝の第一子である方の行列だったなんて……。非礼にも程がありすぎて、一瞬、目の前が遠くなった。
近従の人たちも、苛立ちを隠さずに私を見ている。
順番なんて気にしていられずに、足元のそれらをひったくるように集めていると、突如行列の人たちから戸惑ったようなざわめきが聞こえた。
何……?私、また何か無礼を……?
そう思っていると、スッと。
目の前に何枚かの書が差し出され、私は飛び上がるほど驚いた。
……だって、その手の主は、行列の中心、若穂宮様その人だったから。
「慌てずとも良い。私は急いでなどないのだから、ゆっくり拾うが良い。勤め、ご苦労である」
降ってきた、よくとおる穏やかな声。
「あっ……ありがとう、ございますっ……!」
恐れ多く、とてもお顔を見てなどいられず、書を受け取って私は頭を下げた。
声にふと既聴感を感じるも、そんなことなど構っていられない。
残りもなんとか拾い集め、脇に退いて深く頭を下げた。
が。
「……そなた、顔を上げよ」
不意に、語調が変わってそう命じられる。
「……私、ですか……?」
他には誰もいないのだが、信じられずに聞き返す。
「そなた以外に誰がおる。顔を見せてくれ」
変わらぬ穏やかな声に従って、ゆっくりと顔を上げる。
宮様が、息を呑んだのがわかった。
「昨晩の……紫苑の君……」
私にしか聞こえない声で呟かれ、耳を疑った。
……“昨晩の”?
昨晩私が会ったのは……やはり、あの人で、それは、宮様だったと言うの?
だから声に覚えがあったのかとぼんやりした頭で考えた。
昨日の唐衣は花浅葱(はなあさぎ)色だったから、紫苑の君、と言われたのはよくわからないけれど……と考えたところで、ふと気付いた。
昨晩、あの方と逢ったとき、私は唐衣を脱いでいた……!
そして確信する。唐衣の下に着ていた、一番上の単(ひとえ)は紫苑色をしていたと。
私が目を見開いたのを見て、確信したように宮は微笑まれた。
「そなた、名は何と申す?」
「……はい?」
一介の女房(にょぼう)である私にそこまでの興味をもたれると思っていなかったので、私は聞き返してしまった。
「早く答えるんだ、無礼な……この方は宮だぞ……」
近従の一人に悪態をつかれ、私は慌てて答える。
「藤侍従と申します」
「藤侍従、か」
宮様に名を呼ばれ、胸が締め付けれる気がした。
「……宮、申し訳ございません、お時間が……」
そこに、一番の側近らしき人が囁いて、彼はふと我に返ったようだった。
「……そうか……すまない、これにて失礼する」
その言葉に、私は頭を下げた。
「……また、今度」
前を向きながら、私にしか聞こえない程度の大きさの、宮様の声が降ってきた。
目の前を、長い行列が過ぎていった。