月夜の逢瀬~皇太子様と紫苑の姫君~




『……また、今度』

去り際に聞こえた宮様の声が、耳朶に残ったまま離れない。

「……今度、か」

ぽつりと呟くと、隣の橘左少史が怪訝な目をこちらに寄越してきた。

「どうしたの?」
「ううん、何でもないの」

笑顔を浮かべて取り繕うけれど、頭の中の声は鳴り止まない。

(……今度、なんて、あるはずがないのに)

自分と彼との間の、隔たるような身分の差を思い浮かべて、私は溜め息をついた。

「藤侍従?今日は元気がないけれど……本当に大丈夫?」
「ええ、気にしないで」

溜め息なんてついていたら心配をかけてしまう、と思い直し、私は気分を切り替えようとつとめた。今日は全く仕事に集中出来ていないのだし、思案はよそう。

そう思っているところに、さらに橘左少史の声が響く。

「今日はもう仕事も終わるし、家に帰ってゆっくりお休みなさいね?」
「え……?」

慌てて外を見ると、陽はもう中空に昇りきっていて、いつも帰る時間帯だとわかる。同時に、周りの机から響く立ち上がるような衣擦れの音にも気がついた。

私が呆然としているうちに、蔵司の仕事場でも帰りの合図がなされた。




     *   *   *




「ただいま」

半時ほどの時が過ぎて、私は一日ぶりの見慣れた地に降り立った。

深い緑の中に佇む、さほど大きくはない造りの一軒家。

山奥にある私の住み処は、他の女房の実家のような、内裏の通りに面したお屋敷とは明らかに様子が違う。

もし和泉納言などが見たら鼻で笑われそうなこの家は、父上の所有する山荘である。

実家は父の一族からの風当たりが強く、居心地が悪かった。そこで、宮勤めを始めるときに祖母と一緒にここに引っ越したのだ。

母上だけは父の側にと実家に残っている。父上の本妻なのだから当然と言えば当然なのだけれど。

「ばあや、ただいま」

沓脱(くつぬぎ)に辿り着き、中にいるのであろうばあやに声をかけた。

すると、すぐに奥から物音が響いて、何事かと驚く私の前にばあやが姿を現す。

「おかえり。驚きなさい、今日は何が届いたと思う?」

ただでさえ入り口まで私を迎えに来るなんて珍しいのに、その上なぜか上機嫌なばあやに面食らった。

「何が……?いいえ、さっぱりわからないわ」

畳間まで歩きながらそう言うと、ばあやは益々嬉しそうに言う。

「なんてったって初めてのことだからね……。歌だよ、歌が届いたんだ」

「歌?……えっ?」

何のことか一拍遅れて理解して、私は頓狂な声をあげた。同時に、何故ばあやがこんなにも上機嫌なのかが思い至る。

だって、歌と言ったら……恋仲にある男女で、男が女の部屋に参る意思を伝えるもの、でしょう?

三日続けて参ったら、婚約したことになるという、意味合いをももつもの、という知識だけはあるけれど、今まで縁遠いものだったから、いまいち実感がわかない。

私なんて、紹介されるほどの名家の娘でも、特殊な才の持ち主でもないから、今までそんなものを貰ったことは一度だってなかったのだ。

「誰なの?誰が私なんかに……」

そう問うと、ばあやは楽しそうに笑った。

「それが、なんと若穂宮様だというんだよ。お返事はもうしておいたからね。それより、どこでそんな高貴なお方と知り合ったんだい?」

「……ええっ?」

思わず、私はさらに素っ頓狂な声をあげてしまう。

宮様が……どうして……?

『……また、今度』。

思い出されるのは、昼間のその言葉。

戸惑いながらあれこれ準備をしているうちに、ゆっくり日は暮れていった。

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