婚カチュ。


肺が圧迫されているように呼吸がしづらかった。胃の底が冷えて全身が寒い。
 
恋の病は心臓のみならず周囲の器官にまで悪影響を及ぼしているらしい。

その症状を楽しんでいられる時期はとうのむかしに過ぎてしまった。いまはただ、つらいだけだ。
 

わたしはたぶん、恋をするのが遅すぎたのだ。
 

傘をとじてガラスの自動ドアをくぐった。
エレベーターが主人を待つ忠犬のように従順に1階で口を開けている。それに乗り込もうとして、足を止めた。


やっぱりやめよう。
また別の日にしよう。
 

問題を先延ばしにするのは愚かな行為だ。それを分かっていてもなお、広瀬さんと向き合う勇気が出なかった。


エレベーターは上階からべつの主人に呼ばれ、ただ今馳せ参ずとばかりにのぼっていく。

わたしはビルの自動ドアをくぐって外に出た。雨はまだ降り続いている。傘を差し、目の前の通りをわたって歩道から5階の窓を見上げてみた。


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