ミッドナイトインバースデイ


「紫織は、本が好きなんですか?」
「ええ。わたし、出版社で小説の編集者をしているの」

 ここに来る前も、担当作家の新作をようやく世に送り出したばかりだ。とにかく風変わりで、頑固で、皮肉屋で、おまけに締め切りも守らず、ここまで仕事がやりずらいと思った作家もそうそういない。元々は、別の編集者が担当だったのだが、いいように丸め込まれて気づけば紫織に押しつけられていたのだ。こん畜生。

「…へえ。僕もシノブも、本は殆ど読まないんですが……、紫織が担当したっていう本、是非見てみたいです」
「こんな貴重な古書を大量に所持しといて、そういうこと言うのね…。けど、嬉しい。普段、本を読まない人向けの小説を考えたり、今色々と進めているところだから……」

 そこまで言って、言葉を失った。
 帰りたくないと願ったのは紫織だった。仕事のことをこんな風に思い出して語って聞かせるなんて、逃避した意味がないじゃないか。

 こほん、ひとつ息をついてハルを見る。シノブと違って、優しい笑みを浮かべながら「ワインでもいかがですか」と勧めてくるのに頷いた。グラスに注がれるルビーレッドはとても濃い色をしている。ワインにはあまり詳しくはないけれど、おそらく年代物なのだろう。芳醇な香りが鼻をくすぐる。

「シノブも飲みませんか」
「飲む」

 演奏をぴたりと止めたシノブが、ソファまでやってきてハルからグラスを受け取った。吸血鬼って、血を吸うだけじゃないんだ。頭の隅っこで、ちらりと思った。大体、人間も訪れないこの場所で、彼らはどのように捕食をしているのだろう。偶然迷い込んだ紫織の血ですら、吸ってやろうなんて意志はこれっぽちも見受けられない。

「ようこそ、紫織」

 
 ハルの言葉を合図に、かちりと合わせられたグラスが高い音を立てた。
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