ミッドナイトインバースデイ
「……そうね。とても、楽しいわ」
いえば、シノブはバっと紫織の方を向く。
「ほんとう?」
「ええ、ほんとうよ。ハル君の料理は美味しいし、珍しい本もたくさんあるし、シノブの演奏も素敵。時計のない生活はまだちょっと不便だけど、とても楽しい」
「じゃあ、前の場所に戻りたいとは思わないわけ?」
「……それは…」
理不尽なことも、嫌なことも、痛いこともない。逃避した先は、あまりにも至れり尽くせりで、彼らが人間ではないということを差し引いても満たされていた。未だ現実感が沸かず、ふわふわした心地でもあった為、改めてそう問われれば心臓がどきりと鳴った。
「美味しい酒も、珍しい本も、絵画も、音楽だってある。昔の場所を忘れるには、紫織にとってあと何が必要?」
ポケットに入れた、未だ捨てられずにいる電源の入らない役立たずな携帯電話をちらと見る。不安気にその瞳を揺らすシノブの手を思わずそっと撫でた。収集は、シノブの趣味だとハルは言っていたけれど、その目的が紫織には何となく分かってしまった。
この場所は、楽しくて、時折あたたかく、時間に囚われることもない。理不尽に腹を立てることも、心を痛めることもなく、穏やかな波間に揺蕩うようだ。頭を空っぽにしてしまえれば楽なのに、シノブに問われた瞬間、脳裏を過ぎった男の姿を掻き消すために、小さく頭を横に振った。
三年前、とうに断ち切ったはずなのに。ぎゅっと唇を噛み締めた。そんな紫織の様子を、シノブはただ黙って見つめ続けた。繋ぎとめたくて、それでもその方法がわからず、途方もないと影を落とす。
紫織とシノブは、どこか似ている。
傍にいて欲しくて仕方ないのに、素直になれない、臆病ものだ。いつも不安を抱えているけれど、平気なふりをして心の奥底に押し込めて。忘れたと思った頃に時折顔を出しては心臓をがりがりと削るのだから、心はすっかりと疲弊してしまう。