極上の他人


ふと周囲を見回すと、まだ千早くんはカウンターに戻ってくる様子もなく飲み物を作りながら忙しそうに動いているし、輝さんも、お客さんに捕まって楽しそうに言葉を交わしている。

今なら、大丈夫。

これ以上、この場所で自分の恋心を実感するのはつらい。

私は鞄からお財布を取り出すと、一万円札をカウンターに置いて、そっと席を立った。

結局口にすることはなかったけれど、私のために用意してくれているはずの夕食代。

いつも私からは絶対に受け取ってくれないお金だけれど、今日は置いて帰ろう。

振り返って輝さんを見ながら小さく頭を下げると、人の影に隠れるように小走りに出口を目指し、素早くお店から飛び出した。

さっき、輝さんが私の手を掴んでカウンターに連れて行ってくれた時に感じた体温を思い出して切ないけれど。

ここにはもう来ない。

自分に言い聞かせるように呟いて、お店を後にした。

何度も通った事のある駅までの道が、とても遠く感じたのは、きっと気のせいだ。



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