三十路で初恋、仕切り直します。
「そうだね。いずれはね、そうなるといいな」
津田もなんでもない風にそう答えるから、やりきれないような気持ちになる。泰菜を見て、津田は少しだけ眉根を寄せて困ったような顔をしたあと、やはり気負いのない口調で悩みの核心ともいえることを唐突に告白してきた。
「実はさ。俺と菜々子さん、付き合ってから今まで、まだ一度も同じベッドで寝たことがないんだよ」
泰菜はただ目を見開くことしか出来ない。
「つまりね、清い関係ってこと。プラトニックなわけ」
婚姻関係にある健康な若い男女が同じ屋根の下にいて、そんなことはありえるのだろうか。
また津田にからかわれているのかもしれないと、そうであればいいのにと思うのに、津田の奇妙に凪いだ目を見てその告白が真実なのだということが分かってしまう。
津田は並んで歩きながら、まるで天気のことでも話すような口調のまま続けた。
「俺のプロポーズ受けてくれたんだから、あの本命だった男より俺を好きになってくれたんだって思い込んでたんだ。でもさ、そうじゃなくて結婚してくれる保障もない家庭持ちの男より、独身の俺の方に流されたほうが楽だろうっていう打算だけだったみたいで」
泰菜が何を言うより先に、津田は首を振る。
「……彼女、たぶん挙式も入籍もすべて終わってから、我に返って俺との結婚が打算だったって気付いたんだ。菜々子さんも苦しいんだよ」
「でもそんな」
「彼女だけじゃなくて、浮かれて何も考えないで、外堀埋めるように勇み足のままどんどん話進めて追い詰めた俺も悪い。……こんな状況になっちゃう前に彼女の心を思いやってやれなかった、その罰なんだ」
いくら津田が庇おうと、いくら夫婦間でしか分からない事情があるのだろうとしても。津田と彼の妻との歪な関係は受け入れ難く、納得し得ないものだ。法資でなくとも「さっさと別れろ」と言いたくなる。
でも今泰菜が感じるやりきれない、ひりひりとするような痛みは、泰菜が負った痛みではなく今津田が背負っている痛みなのだ。もしかしたら危ういバランスにあるかもしれない津田の心を無責任に揺さぶりたくなくて、泰菜は言いたい言葉をすべて胸の内に飲み込んだ。
その様を見た津田が、やさしげな形をした切れ長の目をまぶしそうに細める。
「……そんな顔しないでよ。これでも楽しんでるんだから。こうやってちっちゃいところから点数稼いで、いつか『詰み』にしてやって、『参りました!わたしやっぱり俊樹くんのこと愛してます!』って菜々子さんに言わせるのが当面の俺の目標なんだからさ」
駅の構内へ続く通路の前で、ふたりとも立ち止まった。
ほとんど往来のない、駅前にしては閑散としたその場所で向かい合うと、津田は頭を搔きながら「なんてね」と言い出す。
「……たーちゃんの前だから、ちょっと強がっちゃった。本当はさ、少しも気持ちが寄り添わない人間が毎日毎日顔を付き合わせて生活していることに、ちょっとめげかけてた。山田の奴もうちの家庭の事情なんて知らないはずなのに、やたらと俺のこと『危なっかしい』って心配するんだよね。やっぱ俺、自分で気付いてなかっただけで少しおかしくなってたのかな?」
付き合っていた頃には決して泣き言なんて言わなかった津田がこうして弱いところを晒してくるのは、それだけ自分たちが大人になったからなのかもしれない。
目に見えているもの以上に、時間の流れを感じさせられて、それが妙にせつなかった。