三十路で初恋、仕切り直します。
10 --- あなたもわたしになびかない
サイドスピーカーから管楽器の音が流れてくる。グリーグ作曲の『朝』だ。あまりにもベタすぎるラジオ局の選曲に吹き出すと、隣の運転席にいる法資もふっと笑う。
お互い笑うタイミングが重なって、でも言葉を交わすことはなくぎこちない沈黙が続く。
法資からのプロポーズを断った後、泰菜はもうここからはひとりで帰れるからと申し出たけれど、法資はそれを聞き入れず、再び二人は車に乗って泰菜の住まいを目指していた。
車は残り少ない道行、東名高速を降りて海岸沿いの一般道を走っていた。すこしだけ開けたウィンドウから入り込む風には潮の匂いが混じる。
会話のない中、ラジオの音だけが無意味に響いていた。
「おまえはなんでトミタに入ったんだ?」
泰菜の家の住所を登録したカーナビが、まもなく到着だとアナウンスしたあたりで不意に法資が口を開く。
「答えられるほどの理由はないよ。……就職活動に乗り遅れて……」
大学で語学を勉強していたからそれを活かせる仕事を、と思っていた。それなら地元に戻って都内で就活したほうがいいと先生にもアドバイスをもらったのに、意地のように静岡での就職口を探すうちにあぶれてしまったのだ。
「それで半年くらいフリーターしてたときに、たまたま近所のトミタの工場で中途採用の募集してるの見付けて」
「正規採用だったのか?」
「運の良いことにね」
採用後、工場という想像以上に男社会の現場で何度も泣き泣かされ、泰菜の20代の時間は恋をたのしむでもおしゃれに目覚めるでもなく、ただ仕事をひとりでこなせるようになるためだけに消費された。
今も体力的にも精神的にもつらい仕事であることには変わりない。
でもこのまま独り身でいるかもしれないとふとした瞬間不安に陥りそうになったとき、『そうだとしてもわたしは仕事があるし独りでも大丈夫よ』と自分を慰められた。
ひとりの社会人として働けている事実は、ときに自分を支えてくれる。そういう意味では、志望した仕事ではなかったにしろ、たまたま職にありつけたことがとても有難いことに思えていた。
「法資はトミタが第一志望だったの?それとも商社とか他の業種も受けてた?」
「……俺は車を造りたかったんだ」
あやふやな動機で職にありついた泰菜とは対照的に、法資は強い口調で言った。
「車を造る?設計部の方を志望してたの?」
それは今の法資が携わっている業種とはまるで違う。
「デザイナーのニシナ・リヒトって知ってるだろ?何年か前に携帯とか家電のデザインで賞貰った、工業デザイナー」
「えっと、たしか……うちの『エルネスタ』のデザイン担当した人だっけ?」
さすが話が早い、と法資が微笑む。
「そう、商業的には大失敗だった『エルネ』の。トミタファンの中でもなんでカーデザイン未経験者に任せただとか、車のうつくしさをまるで理解してない陳腐なデザインになったとか、今でも悪評高いんだけどな」
法資の言うとおり、その車がネットでも『王者のトミタ、一人勝ちしすぎで迷走しはじめたか?』とか『近年デビューの中でもデザインも機能もワースト車』とだいぶひどいことを書かれて叩かれていたのを知っている。正直泰菜も、まるでアメリカ車を意識したような角ばったデザインと、日本車ではあまり目にしない配色展開があまり好きにはなれなかった。
「法資はエルネスタ好きなの?」
「好きっつぅか。俺はさ、守り一点の保守的だと思っていたトミタが、この業界じゃまだ無名で未経験者のデザイナー引っ張ってきて、若いチームで何か新しいことをしよう、新しい車を造ってやろうってその熱意というか意気込み知ってさ。……それにしびれてな」
「それでトミタを志望したの?そういえば法資、子供のときからプラレールよりトミカの方が好きだったよね、車のおもちゃの方」
「よく覚えてんな。まあ、もともと四輪好きだったところに、大学のときニシナさんの講演を聞いてな」
自然と『車造りに携わりたい』と思うようになったという。
「うまく内定貰ったところまではよかったんだ。研修も自分なりに楽しみながらこなせていたし、こんなに熱意のある俺が選ばれなかったら他の誰が選ばれるんだくらいに思っていたし」
けれど残念ながら、法資の配属先は法資の希望とは全然違う部署だったのだろう。
「……でも、今の海外事業部だって、十分大きな、信頼されてる仕事なんでしょう?」
「まあな。けど設計とはまるで縁のない営業関連の仕事なんて口が上手くて小器用なのが禍したのかと思えて、辞令見たときにはさすがに結構堪えた……おい、この細い道の方曲がればいいんだよな?」
「あ、うん、そう」
車が民家と民家の間を縫うように進んでいく。もうまもなく家に着く。