三十路で初恋、仕切り直します。

「ほら、桃木。桃木法資だよ、たーちゃんに惚れてた」


津田の口から出たその名前を聞いた途端、急に無音の世界に放り込まれたかのように工場内の音が知覚から遠退いた。


「たーちゃんはさ、桃木が同じ会社にいるって知ってた?桃木、今うちの海外事業部で働いてるんだよ」


無音の世界で津田の声だけが大きく響く。


「俺もさ、入社式で見つけたときはびっくりしたな。進んだ大学も違って高校卒業してからなんの接点もなかったのにさ、いきなり就職先で再会なんだから。それにしてもあのときの桃木の顔、たーちゃんにも見せてやりたかったなあ。俺見てまるで疫病神と目が合ったみたいな顔してさぁ、ああ俺桃木にすごい嫌われてたんだよなぁって懐かしく思えて……たーちゃん、どうしたの?」



楽しげに笑っていた津田が、泰菜を見下ろしてどこか不思議そうな顔をする。

不意にその名前を聞かされただけで、内心動揺していた。自分でもまだ法資との出来事を上手く整理出来ていないことに気付かされる。



「ううん」と言って、取り乱しそうな自分を隠すために無理やり何でもないような顔を取り繕う。

「……津田くんがあんまり大昔の話を蒸し返すからびっくりしただけよ」
「大昔の話?ああ、えっと、桃木がたーちゃんのこと好きだってやつ?」

「もう。そうやって津田くんが根拠のないこと何度も言うから、わたし法資のファンみたいな女の子たちにいっつも睨まれてたんだからね」









『桃木はさ、絶対たーちゃんのこと好きだよね』


付き合い始めて間もない頃、津田に言われた。


高校生になってからは学校では法資と必要に迫られない限り口を訊かなかったし、親しげな素振りなんてお互いしていなかったのに、なぜだかこの手の勘違いをされることが多かった。

津田にまで誤解されていることに困惑していると、津田は『絶対そうだよ。最近俺桃木にめっちゃガン飛ばされるもん』と少し迷惑そうな、それでいてどこか優越みたいなものを感じさせる顔をして言った。


泰菜は苦笑することしか出来ない。


どんなに周りが誤解しようとも、他の女の子にやっかまれようとも、それだけはありえないと分かっていた。法資が自分を好きだと言ったことなんてなかったし、好きな相手にするような『特別な態度』を法資に取られたこともなかったから。

もう気安くお互いの家を出入りしなくなった今、これからは法資とますます疎遠になることはあっても恋愛感情を抱かれることなどあり得ない。


津田に『絶対に好きだって』と言われるたび『絶対ないって』と否定し続けた。



けれど。


けれどほんのひととき、あんまりにも津田がしつこく言い続けるものだから、ふと気の迷いみたいに『もしかしたら……』と思いかけたことがあった。

本当に、津田が言うように法資が津田をひどく嫌っているのも、もしかしたら自分に原因があるのではないかと。



でもすぐにその思い上がりを恥ずかしく思う破目になった。



法資が学園祭の後、学校一の美女・美河先輩と付き合いはじめたのだ。在学中の三年間、『ミス星濱園高校』の称号を欲しいままにしていた美河先輩と法資の美男美女カップルはあまりにもお似合いで。

ほんの一瞬でも不相応な思い上がりを抱きかけた自分が惨めで、連れ立って歩く二人を見詰めながらこっそり苦笑いするしか出来なかった。





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