三十路で初恋、仕切り直します。
「……あのう、お客さん、いいですか。料金を」
車外に出てきたタクシーの運転手が申し訳なさそうに声を掛けてきた。
あまりの間の悪さに津田がその場で吹き出し、法資は忌々しそうに舌を打ちながら財布から一万円札を数枚抜き取る。と、津田がその万札を法資の指先からすっと奪い去って言った。
「さぁてと。明日も早いことだし俺はこの辺で帰るかな」
何事もなかったような朗らかな顔で笑うと、津田はその目にいたずらめいたものを浮かべて泰菜を見る。
「あーあ。今日は楽しかったな、たーちゃんと会えたし、桃木のそんな必死な顔見れたし。まさかいつも冷静な桃木があんな他愛もない冗談真に受けるとは思わなかったよ」
冗談?
いったいなんのことだろうと疑問に思う。隣に立つ法資には何か思い当たることがあるらしく、途端に苦虫を潰したような怒り交じりの表情を浮かべた。
「津田、おまえ……」
「あはは、本気で騙されてやんの。そりゃ相変わらずたーちゃんはかわいいままだったけどさ、俺には大事な奥さんがいるからね」
「……はっ、本当かよ。本当にまるっきりの冗談だったのか?……おまえが『結婚生活にはもう疲れた』って言うと洒落になんねぇんだよ。それに冗談だったらなんであの後俺からの着信何度も無視して」
「たーちゃん」
憤慨する法資の言葉をぴしゃりと遮って、津田は泰菜の方を向く。
「この疑り深い奴にさ、俺の身が潔白だって言ってやっておいてくれる?たーちゃんの言葉じゃないと信じそうにもないし」
「……おい、30過ぎの女に『たーちゃん』呼ばわりはねぇだろ」
絡む法資に「やきもち焼きがうるさいな」と辛辣な言葉で吐き捨てると、津田は運転手にお札を手渡しながら「駅前の竹村ホテルまで」と告げる。
「あのね、桃木。これだけははっきり言わせてもらうけど、俺本気で奪うつもりがあったらおまえにだってもう絶対に遠慮はしないよ」
冗談とも思えない真剣みを帯びた目でそう言うと、津田は泰菜に向き直ってにっこり笑う。
「心配しないでよ。今のところ俺は菜々子さん一筋だから。じゃあね、たーちゃん。俺明日もう一度工場寄るから、また工場でね。桃木、悪いけどホテルまでの足がないからこのタクシー俺がもらっていくね」
そういって車窓からひらひら手を振る津田は、夜の田舎道に消えていった。