三十路で初恋、仕切り直します。

いまどきデキ婚なんて珍しくもない。けれどいまだにデキ婚に対して否定的だったり冷笑的だったりする保守的な人たちがいることも知っている。

自分はともかく一生今の会社で勤めあげるだろう法資が、もし結婚のことで職場での心象が思わしくないものになってしまったら、それは泰菜にとって堪らないことだった。




そんな泰菜の胸の内など知らず、法資がわずかに苛立った顔をする。

「……俺のことが信用出来ないか?まだやり逃げされるとか思ってる?」

「誰もそんなことは言ってないでしょ」
「怒るなよ。けど生憎な、さすがに俺だってそこまで用意良くねぇよ。逆に準備万端でここまでやって来たってなら気持ち悪くないか?引くだろ、絶対」


それはそうかもしれないと軽く頷く。


「なら仕方ないだろ」
「……だめってばっ」


隙を突いて押し入ってこようとした法資を止めると、わずかに余裕をなくした顔で法資が怒ったように言ってくる。


「ってかおまえな。どうしても駄目ってなら、なんでもう引けないような状況になってから言うんだよ」

こんなひどいおあずけ今まで食らわされたことねぇよと、憎らしそうに言ってから法資がまた噛み付いてくる。

「……いッ……痛いよ、……あ、あの……っ!!」
「んだよ」
「……ここの下から二番目……」


鎖骨に歯を立てられながら、傍にあった茶箪笥に指を向ける。


通常は食器や菓子などを置く家具であるけれど、祖父の武弘は薬箱代わりのようにいろいろな医薬品をその茶箪笥の引き出しに詰め込んでいた。

祖父が亡くなった後も、泰菜は本来の使い方をせずに祖父のように薬や衛生用品をそこへ入れていた。


「……おまえまさか」


泰菜が言い難いことをまた的確に法資は察してくれたらしい。こくりと頷くと、怖い顔した法資に先ほどよりも強く首を噛まれる。甘噛みというには、与えられた痛覚は鋭くて思わず口から短い悲鳴が漏れた。

「……いったぁ……ッ」
「なんでおまえの家にそんなもんが買い置きしてあるんだよ。……前の男、この家にも出入りしてたのか」


法資の目を見れないまま、頷けもしないままでいると法資は突き刺すようなまなざしを向けてくる。


「そういやその男、休みに帰省もしないでおまえの手料理食べて喜んでたとか言ってたもんな」


淡々と言い放ってくるところに逆に押さえ込まなければならないほどに法資の中で怒りが沸き立っていることが感じられて、泰菜は何も答えられなくなる。


「……おまえが他の男と使うつもりで置いておいたものを使わされるなんてな」

屈辱に満ちた声で法資が吐き捨てた。「ごめんなさい」と小声で謝りながら泣きたい気分だった。




法資を怒らせるくらいなら、流されてしまった方がよかったんじゃないかと後悔するように思いはじめる。

すこし考えればプライドの高い法資が、未使用とはいえ前の男の「お古」を渡されれば機嫌を損ねるだけだと分かりきっていたことなのに。

避妊した方がいい、大人の体面のためだということばかり考えて、目の前にいる法資にひどく無神経なことをしてしまった。思いが通じ合ったこんなときにまで無駄に理性が勝ちすぎてしまうから、自分は可愛げがないのかもしれない。


悔やむような気持ちでいっぱいになっていると、不意に法資の体が離れていく。


「……法資」
「何泣きそうな顔してんだよ」

おでこにおきまりの痛みが走る。法資は茶箪笥の引き出しを開けていき、二番目の引き出しの奥から目的のものを探り出した。


「正直、めちゃくちゃ腹立つけどな。こんなもん一枚でおまえが自分が大切にされてるの、されてないのだって思い悩むくらいなら使ってやるよ」


再び泰菜の体に寄り添いながら法資が意地悪く笑う。


「その代わり、おまえがこの前俺に良いようにされておきながら、うわ言みたいに俺とは『付き合えない』だとか
『無理』って何度も振ってきやがったあの時の屈辱、今日こそ晴らさせてもらうからな」


わたしが、法資を振る?

どこかでも聞いたような気がする話だけど、うまく思い出せない。記憶をたどっていくうちに法資が唇を押し当ててきた。


「……どうせ酔っ払ってたから、あの晩のことはおまえ覚えてないんだろうけどな」





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