幸せになるために
吾妻さんはもちろん気の毒だけど、それはお兄さんにとっても、到底良い環境だったとは思えない。

でも話を聞く限りでは、お兄さんは奇跡的に常識的、良心的に育っているようだし、弟である吾妻さん同様、親のエゴに振り回されながらも、肝心な部分で人として間違えないように、必死に軌道修正しながら生きて来たのではないだろうか。

つくづく、なんて聡明で、健気な兄弟なんだろうと思う。


「あ、そういえば。こんな事があったな。かろうじて平均点をキープしていた俺とは違い、兄は中高と、常にトップクラスの成績だったんですけど、最終的に母が昔から憧れを抱いていた有名私大にすんなりと合格したんです」


吾妻さんはふいに甦ったらしいエピソードを語り出した。


「その時に『本当は幼稚舎から通わせてあげたかったけど、そんなお金もお受験する暇もなかった』と、お祝いを持って来てくれた親戚の前で、俺にだけ感付かせるような当てこすりを言われました」

「え…」

「それが決定打になったというか…。『ああ、つくづく俺って、この人に嫌われてるんだな』って、改めて認識した瞬間だったんです。母親だからって、何かを期待してても無駄なんだな、と」


吾妻さんは主に後半部分を伝えたかったのだろうけれど、その前の段階でオレは大いに引っ掛かった箇所があり、返答しないまま、自分の世界に入り込んでしまった。

『平均点をかろうじてキープ』していたというけれど、それはお兄さんの成績を上回ったりしないよう、つまり、母親の機嫌を損ねたりしないように、うまく調整していた結果、そうなったのではないのだろうか?

画力だけではなく、すべての才能をひた隠しにして生きて来たという事では…。


「そして、兄が大学卒業後、一流商社に入社した時点で、画力がどうのこうのなんてのはもうどうでも良くなってしまったみたいで。俺がプロのイラストレーターになる、一人暮らしする、と報告した時も、機嫌良く放り出してくれました。そんな訳で、とりあえず今は母親とは精神的にも物理的にも距離を置けているし、とっても快適ですよ」


何て事を考えている間に、吾妻さんは話のまとめに入った。


「これからも歩み寄るつもりはさらさらありません。昔された事は決して忘れないし、それを水に流して今後あの人と仲良くして行こうなんて気持ちには、これっぽっちもなれませんからね」
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