幸せになるために
「え?ううん。今日は仕事だったし、それに……職場に現物はあったんだけど、借りるのはちょっと躊躇してしまって…」

「ですよね」


頷いたあと、吾妻さんは続けた。


「これから俺が話す内容には、その本に書かれている事も含まれてしまっていますが、大丈夫ですか?」

「……うん」


一瞬間が開いてしまったけれど、オレは力強く返答する。


「これからどうするべきかを探る為にも、吾妻さんと、聖くんの過去についてきちんと話をしておきたいと思ったから。そこは気にしないで」

「分かりました」


吾妻さんはコーヒーを一口飲んでから、意を決したように話を再開した。


「男がアパートに転がり込み、数ヵ月経った辺りから、頻繁に男の怒号や聖くんの泣き声が聞こえて来るようになった。また、聖くんは何日も同じ服を着せられていたり、日々痩せ細って来ていたので、アパートの住人や大家さん、保育園の先生が不審がり、それぞれが母親に話を聞き出したそうなんですが…」


そこで吾妻さんは思い切り眉根を寄せた。


「『聖は家では我が儘放題でやんちゃなものだから、かなりきつく叱らないと言う事を聞かない。あれは躾の一環だ』『自分のお気に入りの服を何日も着たがって困る』『食が細くて好き嫌いが激しくて、せっかく出した料理を食べなかったりする』『あの子のせいでご迷惑、ご心配をおかけして申し訳ない』と、母親自身がその都度説明していたそうなんです」

「なっ……」


『度重なる虐待があり、周りも薄々気が付いてはいたけれど、母親がそれを否定し、聖くんもその意見に同意していたので、それ以上は踏み込めなかった』という記述はネットの記事にもあったけれど、関係者達の細かいやり取りまでは把握していなかった。


「12月の寒空の下、上着もなく、パジャマ姿に素足で真夜中、ベランダに放置されたりした事もあったようです」

「そんな……」

「いくら一階といえど、当時4才の聖くんが手すりを乗り越えて外に出るというのは至難の技ですからね。そこでただ、震えている事しかできなかった」

「当たり前だよ」


それにもしベランダから脱出できたとして、その後一体どこに行けば良いと言うのか。

聖くんはおそらく母親の為に、自分は虐待などされていないと言い続けていたのだから、周りに助けを求める事などできなかっただろう。
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