万理央♂の結婚
8面:オープン・セサミ
(嫌なところ見ちゃったなあ。)
万理央はドアベルを鳴らして俯きながら喫茶店を出て行った。おそらく野瀬の方は万理央に気付いていなかったはずだ。それがせめてもの救いだった。
そして、彼女に恋心を抱いていたなら、この恋はもう終わり!自分に何度も言い聞かせる。<不倫><浮気>そういう言葉に万理央は敏感だった。自分の戸籍の父親の欄が空白な訳を何となくわかっているからだ。
ビルを見上げる。三階…四階、あのあたり。いつもの打ち合わせ室があるあたりだ。憂鬱な気持ちを振り切るように頭から自動ドアに向かって行き、危うくガラスのドアに衝突する寸で立ち止まる。自動ドアが開かないのだった。一瞬呆気に取られた後で、万理央は自動ドアの下のマットの上を行ったり来たりジャンプしたりした。だがやはり開かなかった。「行きたくない」と思う万理央の気持ちを見透かして受け止めるかのように。それでも、引き返して帰るわけにも行かない。諦めずに何度もジャンプしたり歩いたりしている所に、
「小林さん?」
「あ…」
野瀬遥だ。
「あ、開かないんですよ。」
「え?」
二人は自動ドアの上のほうを見詰める。そこには奇妙にひしゃげた二人が写っているセンサーのような黒い物体が取り付けられていた。二人は顔を見合わせて、同時にマットの上でジャンプした。それから野瀬遥がドアギリギリを行ったり来たりしている後で、万理央は鞄をブンブン振り回した。
自動ドアの向こうにやって来た人が二人を不思議そうに見詰めて、ドアが開かないのが分ると「知らせてくる」と合図を出した。程なく警備員がやってくるまで、野瀬遥と万理央はマットの上でボンヤリと自動ドアのセンサーのような物を二人して見上げていた。
自動ドアが開いて、向こう側で知らせてくれた人と挨拶を交わしながらやっとロビーに入ると、なんだか可笑しくて笑いがこみ上げた。くくく、と小さく笑うと、野瀬遥もくくくと隣で笑った。天井の高いロビーで二人の笑い声が響いて、エレベーターは二人の笑い声を乗せて上って行った。
打ち合わせ室に入ってきた野瀬遥は和やかな顔をしていた。万理央をみると顔を綻ばせて「先ほどはどうも…」と言ってまた少し笑った。それから営業用の笑顔を見せて通りいっぺんの挨拶をすると、きりりと眉毛を上げるようにして、打ち合わせを始めた。
打ち合わせを無事に済ませた後、野瀬は少し居住まいを正して、何か言いたそうにしている。万理央がいつもよりも時間をかけて書類を片付けていると、野瀬は意を決したように万理央をまっすぐに見て言った。
「あ…あのっ!」
万理央は手を止めて野瀬を見た。
「あの…。」
「はい。」
「あの、その…、色々と…ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ありませんでした。」
おそらくテーブルの下で手を重ねている。テーブルに額をこすりつけるように頭を下げていた。
「いいですよ。もう。俺も…、言いすぎました。ごめんなさい。謝ろうって思ってたのに、謝れなかった。」
野瀬は驚いたように万理央を見た。
「そんな、なんで…小林さんは悪くありません。言いすぎなんてこと、ないです。当たり前のことでした。そのことに、私…、お礼も言わないと、って…」
「お礼…?」
「えぇ、大切なことを、教えていただきました。こんな年をして恥ずかしいけれど、本当に…」
野瀬の頬が赤いのは、陽の光のせいなのだろうか。
「そんな大それたこと・・・。俺は、言いたいことを言っちゃっただけです。いい年して、俺の方こそ…。」
「いえ、本当に。すごく大事な事を忘れてたって、──」
万理央の心の中で固く縛った何かが解けて行く。
(贅沢がしたくて、仕事をしている訳じゃないわ…)
詰られていた野瀬のよすがを求めるような声。
開かない自動ドアの前で二人が開けようとしてたのは、一体何だったのだろう。
万理央は、思わず口にしてしまった。
「…あ、の…!!──良かったら、メシでも食いに行きませんか?」
万理央はドアベルを鳴らして俯きながら喫茶店を出て行った。おそらく野瀬の方は万理央に気付いていなかったはずだ。それがせめてもの救いだった。
そして、彼女に恋心を抱いていたなら、この恋はもう終わり!自分に何度も言い聞かせる。<不倫><浮気>そういう言葉に万理央は敏感だった。自分の戸籍の父親の欄が空白な訳を何となくわかっているからだ。
ビルを見上げる。三階…四階、あのあたり。いつもの打ち合わせ室があるあたりだ。憂鬱な気持ちを振り切るように頭から自動ドアに向かって行き、危うくガラスのドアに衝突する寸で立ち止まる。自動ドアが開かないのだった。一瞬呆気に取られた後で、万理央は自動ドアの下のマットの上を行ったり来たりジャンプしたりした。だがやはり開かなかった。「行きたくない」と思う万理央の気持ちを見透かして受け止めるかのように。それでも、引き返して帰るわけにも行かない。諦めずに何度もジャンプしたり歩いたりしている所に、
「小林さん?」
「あ…」
野瀬遥だ。
「あ、開かないんですよ。」
「え?」
二人は自動ドアの上のほうを見詰める。そこには奇妙にひしゃげた二人が写っているセンサーのような黒い物体が取り付けられていた。二人は顔を見合わせて、同時にマットの上でジャンプした。それから野瀬遥がドアギリギリを行ったり来たりしている後で、万理央は鞄をブンブン振り回した。
自動ドアの向こうにやって来た人が二人を不思議そうに見詰めて、ドアが開かないのが分ると「知らせてくる」と合図を出した。程なく警備員がやってくるまで、野瀬遥と万理央はマットの上でボンヤリと自動ドアのセンサーのような物を二人して見上げていた。
自動ドアが開いて、向こう側で知らせてくれた人と挨拶を交わしながらやっとロビーに入ると、なんだか可笑しくて笑いがこみ上げた。くくく、と小さく笑うと、野瀬遥もくくくと隣で笑った。天井の高いロビーで二人の笑い声が響いて、エレベーターは二人の笑い声を乗せて上って行った。
打ち合わせ室に入ってきた野瀬遥は和やかな顔をしていた。万理央をみると顔を綻ばせて「先ほどはどうも…」と言ってまた少し笑った。それから営業用の笑顔を見せて通りいっぺんの挨拶をすると、きりりと眉毛を上げるようにして、打ち合わせを始めた。
打ち合わせを無事に済ませた後、野瀬は少し居住まいを正して、何か言いたそうにしている。万理央がいつもよりも時間をかけて書類を片付けていると、野瀬は意を決したように万理央をまっすぐに見て言った。
「あ…あのっ!」
万理央は手を止めて野瀬を見た。
「あの…。」
「はい。」
「あの、その…、色々と…ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ありませんでした。」
おそらくテーブルの下で手を重ねている。テーブルに額をこすりつけるように頭を下げていた。
「いいですよ。もう。俺も…、言いすぎました。ごめんなさい。謝ろうって思ってたのに、謝れなかった。」
野瀬は驚いたように万理央を見た。
「そんな、なんで…小林さんは悪くありません。言いすぎなんてこと、ないです。当たり前のことでした。そのことに、私…、お礼も言わないと、って…」
「お礼…?」
「えぇ、大切なことを、教えていただきました。こんな年をして恥ずかしいけれど、本当に…」
野瀬の頬が赤いのは、陽の光のせいなのだろうか。
「そんな大それたこと・・・。俺は、言いたいことを言っちゃっただけです。いい年して、俺の方こそ…。」
「いえ、本当に。すごく大事な事を忘れてたって、──」
万理央の心の中で固く縛った何かが解けて行く。
(贅沢がしたくて、仕事をしている訳じゃないわ…)
詰られていた野瀬のよすがを求めるような声。
開かない自動ドアの前で二人が開けようとしてたのは、一体何だったのだろう。
万理央は、思わず口にしてしまった。
「…あ、の…!!──良かったら、メシでも食いに行きませんか?」