万理央♂の結婚
12面:マジカル・ポーション
出版社合同の忘年会は小さなシティホテルの一室を貸し切っていた。すごく豪華な訳ではないが、それなりに華やかさを楽しめる趣向だ。
壁際に並んだ椅子は所々空いていた。万理央はそこにゆったりと座って穏やかに話をしている。白い皿の上に乗ったサーモンをフォークで器用に巻いて突き刺し、パクリと口に入れて万理央は何度も頷いた。
「分ります、分ります。」
篠原は先ほどから娘の結婚の話を何度も繰り返している。
100%この人がいいと思う人と結婚してもうまく行かないことがある。というよりも、自分の統計によれば、それは、うまく行かないことの方が多くてうまく行く方が稀なのだ、と篠原は言った。あそこも、ここも気になる、と思いながら結婚をするなんて目に見えているじゃないか、だけれど、そう思いながらも、そうやって期待しないからこそうまく行くのだろうか?そんな話を繰り返しながら篠原はグラスを重ねて次第に結婚の何たるかも、娘を嫁にやることも、どうでもよくなっていくらしかった。
万理央は頷きながら考えてみる。前の妻と結婚しようと決めたとき、それは、何が決め手だったのだろうか、と。この女(ひと)を幸せにしたい、とあのときの自分は確かに思ったはずだった。それでもこうして振り返ってみれば、やはり「間違った」のだと気付く。
あの頃、三十を目前にして結婚生活を語る友人達の中で、社会人として一人前になるということばかりを考えていなかったか?自由という名目で続けている生活を振り返り、サラリーマンではない自分の不安定さも、根拠のない自信と根拠のない強さでなんとかやりくりしていることをまざまざと知った。この先におそらく何十年と続く人生を共にする女性との生活や家庭を築いていくことのなんたるかよりも、自分の人生で人並みにできていること、できていないことを考えて自己採点ばかりしていたような気がする。
結婚式場も、ドレスも、タキシードも ──
新居も、家具も、小さな雑貨類に至るまで ──
何が変わるわけでもない自分の仕事の仕方と仕事を続けていた彼女との同居とぷつぷつと発酵するように沸いてくる齟齬 ──
多分、何もかも。
彼女が選び、彼女が感じて、彼女が決めて行ったこと、何もかもが彼女任せだった。万理央は彼女を「受け止めている」つもりでいたけれど、本当はただ「受け流していた」だけだった。そう、それは多分、自己採点をあげるためだけに。
「駄目だ、飲みすぎた気がする。」
篠原は節のある手を額に置いて少し項垂れた。万理央は皿にフォークを載せて右手に持ち替えると空いた左手で篠原の背を摩った。
「大丈夫ですか?風に当たりに行きます?」
篠原はゆっくり首を振って立ち上がった。
「一緒に行きましょう」
万理央も一緒に立ち上がると、篠原は苦笑いしてまた首を振った。
「ごめん、小林くん。今日は朝まで付き合わせようと思ったのに。年かな。年だな。俺、帰るよ。」
そういって篠原はふらふらと歩き始めた。
万理央は篠原の腕に手をやって一緒に歩く。手近なテーブルに皿を置いてさり気なくドアを出た。小さなシティホテルだったが車寄せに二台のタクシーが停まっていた。篠原を車に乗せて見送る。冬の風が頬に冷たい。細かく砕けた枯葉の欠片が風に舞って車寄せの低い段差で踊っていた。
エスカレータに乗って、そろそろ帰ろうかなと考えていた。クロークに荷物を取りに戻って、最低限挨拶したい人には挨拶できただろうか。エスカレーターを何度か上がって出版社の名前が入った案内板を目印に降りる。会場に向かわずにクロークへ向かうと、化粧室の方から戻ってきた野瀬遥に会った。
「あ…」
お互いに立ち止まり、足踏みをするように何か挨拶する言葉を捜した。淡いオレンジ色の光の下で野瀬遥の頬が上気しているのが分った。
「大分飲んだ?」
そんな事が言いたい訳ではなかったのに、万理央は野瀬遥の赤い頬を咎めるように言った。
「んーと、そうですね。ちょっと飲んじゃったかな。」
野瀬遥は無邪気な笑顔で言った。万理央はそれが腹立たしい。そんな権利もないのに「もう飲まないで。俺以外の人の前でそれ以上無防備にならないで」と言いたくなった。キリリと歯を噛み締めてそれをやり過ごして、万理央は少しぶっきら棒に聞こえるような口調で言った。
「俺、帰ります。」
「え?もう?」
(──居て欲しいって言ってよ。)
「もう少し、飲みましょうよ。まだそんなに飲んでいらっしゃらないでしょう?今年の私の粗相を忘れてくださるまでは。忘年会なんですから。」
「そんなら、一晩中付き合って頂かないと。」
万理央はきわめて真面目な顔をして──というよりも、どちらかといえば厳しい顔をして言った。野瀬は声を立てて笑った。
(笑い事じゃない。)
「ええ、そうしましょう。それなら、私も、小林さんの粗相を忘れましょう。」
(俺の粗相…?)
万理央は怪訝な顔をして野瀬を見た。野瀬はニッコリと笑って会場へ戻ろうとした。その手を引いて、万理央は少し躊躇いがちに言った。
「──・・・りで。」
「え?」
「ふたりで…!」
こんな事を言える位には酔っている。そして、野瀬も。万理央のその言葉をニコリと笑って受け入れられる程酔っているらしかった。
壁際に並んだ椅子は所々空いていた。万理央はそこにゆったりと座って穏やかに話をしている。白い皿の上に乗ったサーモンをフォークで器用に巻いて突き刺し、パクリと口に入れて万理央は何度も頷いた。
「分ります、分ります。」
篠原は先ほどから娘の結婚の話を何度も繰り返している。
100%この人がいいと思う人と結婚してもうまく行かないことがある。というよりも、自分の統計によれば、それは、うまく行かないことの方が多くてうまく行く方が稀なのだ、と篠原は言った。あそこも、ここも気になる、と思いながら結婚をするなんて目に見えているじゃないか、だけれど、そう思いながらも、そうやって期待しないからこそうまく行くのだろうか?そんな話を繰り返しながら篠原はグラスを重ねて次第に結婚の何たるかも、娘を嫁にやることも、どうでもよくなっていくらしかった。
万理央は頷きながら考えてみる。前の妻と結婚しようと決めたとき、それは、何が決め手だったのだろうか、と。この女(ひと)を幸せにしたい、とあのときの自分は確かに思ったはずだった。それでもこうして振り返ってみれば、やはり「間違った」のだと気付く。
あの頃、三十を目前にして結婚生活を語る友人達の中で、社会人として一人前になるということばかりを考えていなかったか?自由という名目で続けている生活を振り返り、サラリーマンではない自分の不安定さも、根拠のない自信と根拠のない強さでなんとかやりくりしていることをまざまざと知った。この先におそらく何十年と続く人生を共にする女性との生活や家庭を築いていくことのなんたるかよりも、自分の人生で人並みにできていること、できていないことを考えて自己採点ばかりしていたような気がする。
結婚式場も、ドレスも、タキシードも ──
新居も、家具も、小さな雑貨類に至るまで ──
何が変わるわけでもない自分の仕事の仕方と仕事を続けていた彼女との同居とぷつぷつと発酵するように沸いてくる齟齬 ──
多分、何もかも。
彼女が選び、彼女が感じて、彼女が決めて行ったこと、何もかもが彼女任せだった。万理央は彼女を「受け止めている」つもりでいたけれど、本当はただ「受け流していた」だけだった。そう、それは多分、自己採点をあげるためだけに。
「駄目だ、飲みすぎた気がする。」
篠原は節のある手を額に置いて少し項垂れた。万理央は皿にフォークを載せて右手に持ち替えると空いた左手で篠原の背を摩った。
「大丈夫ですか?風に当たりに行きます?」
篠原はゆっくり首を振って立ち上がった。
「一緒に行きましょう」
万理央も一緒に立ち上がると、篠原は苦笑いしてまた首を振った。
「ごめん、小林くん。今日は朝まで付き合わせようと思ったのに。年かな。年だな。俺、帰るよ。」
そういって篠原はふらふらと歩き始めた。
万理央は篠原の腕に手をやって一緒に歩く。手近なテーブルに皿を置いてさり気なくドアを出た。小さなシティホテルだったが車寄せに二台のタクシーが停まっていた。篠原を車に乗せて見送る。冬の風が頬に冷たい。細かく砕けた枯葉の欠片が風に舞って車寄せの低い段差で踊っていた。
エスカレータに乗って、そろそろ帰ろうかなと考えていた。クロークに荷物を取りに戻って、最低限挨拶したい人には挨拶できただろうか。エスカレーターを何度か上がって出版社の名前が入った案内板を目印に降りる。会場に向かわずにクロークへ向かうと、化粧室の方から戻ってきた野瀬遥に会った。
「あ…」
お互いに立ち止まり、足踏みをするように何か挨拶する言葉を捜した。淡いオレンジ色の光の下で野瀬遥の頬が上気しているのが分った。
「大分飲んだ?」
そんな事が言いたい訳ではなかったのに、万理央は野瀬遥の赤い頬を咎めるように言った。
「んーと、そうですね。ちょっと飲んじゃったかな。」
野瀬遥は無邪気な笑顔で言った。万理央はそれが腹立たしい。そんな権利もないのに「もう飲まないで。俺以外の人の前でそれ以上無防備にならないで」と言いたくなった。キリリと歯を噛み締めてそれをやり過ごして、万理央は少しぶっきら棒に聞こえるような口調で言った。
「俺、帰ります。」
「え?もう?」
(──居て欲しいって言ってよ。)
「もう少し、飲みましょうよ。まだそんなに飲んでいらっしゃらないでしょう?今年の私の粗相を忘れてくださるまでは。忘年会なんですから。」
「そんなら、一晩中付き合って頂かないと。」
万理央はきわめて真面目な顔をして──というよりも、どちらかといえば厳しい顔をして言った。野瀬は声を立てて笑った。
(笑い事じゃない。)
「ええ、そうしましょう。それなら、私も、小林さんの粗相を忘れましょう。」
(俺の粗相…?)
万理央は怪訝な顔をして野瀬を見た。野瀬はニッコリと笑って会場へ戻ろうとした。その手を引いて、万理央は少し躊躇いがちに言った。
「──・・・りで。」
「え?」
「ふたりで…!」
こんな事を言える位には酔っている。そして、野瀬も。万理央のその言葉をニコリと笑って受け入れられる程酔っているらしかった。