万理央♂の結婚
18面:紙一枚あるいは液晶画面のあちらとこちら?
外国から来たコーヒーショップのやたらと愛想の良い挨拶が、自動ドアが開いく度に店内に響いた。万理央は頭を抱えて冷えていくコーヒーのマグカップを見守っていた。正確に言うとそれは万理央の目に映っているだけだ。
──自分の実体のない結婚
──野瀬の実体のある婚外婚
そして
──母の実体のない婚外婚?
紙一枚の事、とよく人は言う。
『籍は入っていないの』
『面倒くさい女なの…重すぎるよ』
短すぎる時間で訊いた衝撃的な事実に穿たれた。それでも声を振り絞るようにして万理央は続けた。
『そんなこと…、同じだろ?紙一枚役所に出してるか出してないかの差だろ?俺はその紙を始める時と終わる時、2回出しただけだよ。』
── 面倒なことか?やめたいならやめればいい。簡単なことじゃないか。
でも、万理央を見つめた野瀬の揺れるような目が万理央を黙らせた。
『同じじゃないよ。籍が入っていないのに子どもがいる。籍が入ってないのに一緒暮らしてる。それがどんなことなのか、分ってない。』
── 分ってるよ。分ってるさ。野瀬さん…俺はね、
いつまでも出てこないお姫様は、この城を出たくないのか?
── 『とうちゃんのことは訊くんじゃないよ。』
母も、自分のいないところで、こんな目をしたのだろうか。父親の欄が空白の自分の戸籍。結婚…家族…。
顔を上げた万理央は、反射的に時計を見た。まだ間に合うはずだ。ガタン!と音を立てて立ち上がった。椅子がもう少しで後にひっくり返りそうになって、万理央の膝に当たって戻った。万理央は、後の席の客が迷惑そうに万理央を見上げたことにも気付かず、トレーを押し込むようにカウンターに置いてコーヒーショップを出て行った。その足は、空港に向かっていた。
「帰ってくるならそういってくれればいいのに」
それでも機嫌よさそうに母親は見慣れた急須でお茶を入れる。真夜中に近所迷惑じゃないかと思うほどドアを叩いて、庭に回って母親の寝ている部屋の雨戸を叩いて起こした。
「急に思い立ったんだよ。」
「そらそうなんだろうねえ。」
母親は目を伏せたまま笑って、黄色いみかんがふたつ盛られたカゴ以外何ものっていない綺麗に片付いたテーブルに急須を置いて台所へ行った。万理央の湯のみの綺麗さが、うっすらと茶渋のついた母親の湯飲みの横で蛍光灯に照らされている。
「ごはんは食べたんだねー?」
戸棚を開けてカチャカチャと物音を立てながら、母親が言った。
「食べたよー。」
母親は冷蔵庫から漬物を出して来たらしかった。
「どうする?今日は寝る?お布団乾してないから冷たいよ。」
「んー。うん。まぁ、そんなのはいいよ。蒲団があれば文句言えない。」
万理央は弱々しく笑って、たくあんを楊枝で刺して、くるりと回した。
母親は向かいの席に座って、そんな万理央を見つめているが「どうしたの?」とは訊かなかった。万理央は母親を見つめ返しながら漬物を口に放り込む。
何から話したらいいだろうか。
「好きな人がいる。」
「うん。」
母親は楊枝で白菜を刺した。
「結婚、したい気がする。」
「うん。」
母親はシャリシャリと白菜を噛む。
「でも、少し複雑で…」
一瞬噛むのをやめた母親は、漬物の皿からそっと目を上げて万理央を見た。それからまた、白菜を口に入れてシャリシャリと噛んだ。
「そうか…」
「うん。」
万理央は、白菜の柔らかい部分を選んで口に入れた。
── どうしたら、いいんだろう…?
それ以上に今の万理央の気持ちを表した言葉はなかった。
好きだという気持ちを、捨て去ることもできない。何もかも奪い取るような強(したた)かさもない。彼女を大事にしたい、彼女が大切にしているものを大事にしたい。遠くから見つめていること、見守っていること、それもひとつの「大事にする」方法なのだと分っているけれど、手にして慈しみたいと思うもどかしさが自分を責める。
そして、野瀬の真意はどこにあるのだろう。
(どうしたら、いいだろう。)
でも、万理央はその言葉を口にしなかった。いつも、一番大事な事は自分で決める。どうしてなのか、それを母親にこぼして重荷を分け合うようなことを、万理央はどうしてもできなかった。
「今日はもう寝なさい。明日は仕事ないの?それなら明日も一日ゆっくりして。おばあちゃんのお墓参りでも行ってあげて。」
──自分の実体のない結婚
──野瀬の実体のある婚外婚
そして
──母の実体のない婚外婚?
紙一枚の事、とよく人は言う。
『籍は入っていないの』
『面倒くさい女なの…重すぎるよ』
短すぎる時間で訊いた衝撃的な事実に穿たれた。それでも声を振り絞るようにして万理央は続けた。
『そんなこと…、同じだろ?紙一枚役所に出してるか出してないかの差だろ?俺はその紙を始める時と終わる時、2回出しただけだよ。』
── 面倒なことか?やめたいならやめればいい。簡単なことじゃないか。
でも、万理央を見つめた野瀬の揺れるような目が万理央を黙らせた。
『同じじゃないよ。籍が入っていないのに子どもがいる。籍が入ってないのに一緒暮らしてる。それがどんなことなのか、分ってない。』
── 分ってるよ。分ってるさ。野瀬さん…俺はね、
いつまでも出てこないお姫様は、この城を出たくないのか?
── 『とうちゃんのことは訊くんじゃないよ。』
母も、自分のいないところで、こんな目をしたのだろうか。父親の欄が空白の自分の戸籍。結婚…家族…。
顔を上げた万理央は、反射的に時計を見た。まだ間に合うはずだ。ガタン!と音を立てて立ち上がった。椅子がもう少しで後にひっくり返りそうになって、万理央の膝に当たって戻った。万理央は、後の席の客が迷惑そうに万理央を見上げたことにも気付かず、トレーを押し込むようにカウンターに置いてコーヒーショップを出て行った。その足は、空港に向かっていた。
「帰ってくるならそういってくれればいいのに」
それでも機嫌よさそうに母親は見慣れた急須でお茶を入れる。真夜中に近所迷惑じゃないかと思うほどドアを叩いて、庭に回って母親の寝ている部屋の雨戸を叩いて起こした。
「急に思い立ったんだよ。」
「そらそうなんだろうねえ。」
母親は目を伏せたまま笑って、黄色いみかんがふたつ盛られたカゴ以外何ものっていない綺麗に片付いたテーブルに急須を置いて台所へ行った。万理央の湯のみの綺麗さが、うっすらと茶渋のついた母親の湯飲みの横で蛍光灯に照らされている。
「ごはんは食べたんだねー?」
戸棚を開けてカチャカチャと物音を立てながら、母親が言った。
「食べたよー。」
母親は冷蔵庫から漬物を出して来たらしかった。
「どうする?今日は寝る?お布団乾してないから冷たいよ。」
「んー。うん。まぁ、そんなのはいいよ。蒲団があれば文句言えない。」
万理央は弱々しく笑って、たくあんを楊枝で刺して、くるりと回した。
母親は向かいの席に座って、そんな万理央を見つめているが「どうしたの?」とは訊かなかった。万理央は母親を見つめ返しながら漬物を口に放り込む。
何から話したらいいだろうか。
「好きな人がいる。」
「うん。」
母親は楊枝で白菜を刺した。
「結婚、したい気がする。」
「うん。」
母親はシャリシャリと白菜を噛む。
「でも、少し複雑で…」
一瞬噛むのをやめた母親は、漬物の皿からそっと目を上げて万理央を見た。それからまた、白菜を口に入れてシャリシャリと噛んだ。
「そうか…」
「うん。」
万理央は、白菜の柔らかい部分を選んで口に入れた。
── どうしたら、いいんだろう…?
それ以上に今の万理央の気持ちを表した言葉はなかった。
好きだという気持ちを、捨て去ることもできない。何もかも奪い取るような強(したた)かさもない。彼女を大事にしたい、彼女が大切にしているものを大事にしたい。遠くから見つめていること、見守っていること、それもひとつの「大事にする」方法なのだと分っているけれど、手にして慈しみたいと思うもどかしさが自分を責める。
そして、野瀬の真意はどこにあるのだろう。
(どうしたら、いいだろう。)
でも、万理央はその言葉を口にしなかった。いつも、一番大事な事は自分で決める。どうしてなのか、それを母親にこぼして重荷を分け合うようなことを、万理央はどうしてもできなかった。
「今日はもう寝なさい。明日は仕事ないの?それなら明日も一日ゆっくりして。おばあちゃんのお墓参りでも行ってあげて。」