万理央♂の結婚
3面:歩きかた、ジャンプのしかた、走りかた
「歩クノハ大分上手ニナリマシタネ?」
と、メガネの蜂が言う。──ハイソウデスネ!万理央は心の中でぶっきら棒に答える。無表情にAボタンを押し続けて、この後に続くジャンプの仕方と走り方を懇切丁寧に語りかける蜂に「OK!」「OK!」と、頷き続けなければならなかった。とにかくこの部分をセーブしてしまえば、後は殆どスムーズにゲームを進める事ができるのだ。面倒くさくても、とにかく「わかった」と言い続けて先に進まなければならない。
漸くセーブできる所まで来ると万理央はやっとゲーム機を手放して窓際のテーブルへ向かった。モニターに揺れていたスクリーンセイバーがすっくと立ち上がるように引っ込んで作業画面になる。昼間に渡されたラフをスリーブデスクの下に置いたナイロンバッグから取り出し、それから、内ポケットに入れた名刺入れから新しい名刺を一枚取り出してデスクの左端においてあるカードホルダーの一番前に挿した。
「野瀬 遥 | HARUKA NOSE」
どこか野暮ったいロゴの下にその名前があった。
まさか彼女と仕事で関わり合えるとは思っていなかった。春先に人事異動があるのはよくことだし、人事異動の時季でない時でさえ万理央の担当はよく変わった。それは、万理央は面倒を起こさない方なので編集に不慣れな担当者や一時的なチーム替えのときに補助的な担当者に振り分けられることが多いせいだった。万理央は不思議に思ったことはあるけれど、特にそれで不都合があるわけでもない。何があっても自分らしくいい仕事をすればそれでいいし、担当者はその仕事で自分が何を求められているのか、その橋渡しをしてくれるだけの存在なのだ。過剰に期待してもいけないし、ぞんざいに扱ってもいけない。橋は橋でしかないけれど、橋を渡らないと見えない景色を見せてくれるのもその橋なのだ。そう教えてくれたのは初めてこの仕事を始めたときに担当をしてくれた篠原だった。
ロビーで篠原の頼もしい背を見送りエレベーターに乗った。いつもどおり一般書籍・ムック本の編集部のある階で降り、編集部に声を掛けて言われた打ち合わせ室で待っていた。やんわりとした光がグラフィックで見るみたいに本当に六角形の粒になってそこに舞っているような明るい打ち合わせ室で、窓際に置かれた鉢植えは剣のような葉をしならせていた。こういうとき、ゲームなら、この鉢の下にまずはひとつめの鍵があって…いや、簡単過ぎるか。そんなことを考えていると打ち合わせ室のドアが3回のノックともに開いた。
赤い革の名刺ケース。それはよくあるようなエナメルの赤ではなく、少しくすんだヌメ革に染色したような材質で、きっと長い間愛用しているのだと分る傷が名刺を受け取った時に見えた。名刺をやりとりすることだけはもう物慣れている風に営業用の笑顔を浮かべた彼女の顔は、先日のバーベキューで見せた笑顔の彼女と別人のように見えた。耳に掛けたボブの髪が会釈をしたときに零れたのを急いで耳に掛けたその一瞬だけ、あぁ、やっぱりあの人だ、という気がした。
世間話のように、先日のバーベキューの話も少しは出たのに、彼女はバーベキューの時のような人懐こい笑顔をどこかに置き忘れて来てしまったかのようで、万理央はなんだかいけ好かないと思った。
雀斑の小さな点々が分るほど薄い化粧も、マニキュアをしていない指先も、えくぼができる手も(そしてどうやら左手の薬指に指輪をしてはいなかった。)あの時と同じなのに、こげ茶色のジャケットや、その衿についた金色の小さなピンバッジにのった珊瑚色の石、袖口に見えるワイン色のベルトの時計、そんな物に彩られるだけでどうしてこんな風に違う人に見えるのだろう。
彼女の伏せた長い睫を思い出すと、その睫の主は何度でもバーベキューの野瀬遥になったり、打ち合わせ室の野瀬遥になったりした。そして、最後に、その睫はすっと仰向いて、万理央を上目遣いに見ながらハフハフと肉をくわえて噛み切ろうとしながら
『かたひね(かたいね)』
そう言って笑った野瀬遥になった。だから、いけ好かない、そう思った野瀬遥を打ち消すように、万理央は胸の中で言う。
(硬かった、のは、打ち合わせのときの君だよ…)
とくんとくんと胸が鳴る。パソコンのモニターの光だけがチカチカと照らす暗い一人きりの部屋。
── いくつの恋を経験したろうか?
結婚も離婚もして、この歳になっても、まだ慣れない。
(今更…)
<ジャンプ、走ル、覚エマシタカ?>
今更──?
知りすぎている。そういってもいいくらいの歳を重ねた。初めての恋からもう幾十年経ったのだろう。そして、いくつも恋を重ねて、最後の恋と決めたたったひとつの恋も成就できなかった。
歩きかたなら知っている。そして、この道を知りすぎているから、きっと、ジャンプして走って、道のさらに向こうまで行きたくなるだろう。
それでも、始まりかけた恋の動悸に感(かま)けて何も手につかないほど愚かではない。
(そんなことより…仕事。)
万理央はやっと名刺から目を逸らしてラフを見詰めた。頭の中でいくつかのアイデアを出してそれをノートに書き込んで行く。コンピューターにペンタブをセットする頃には、万理央の頭の中にはもうイラストの事しかなかった。シャカシャカと鳴るペンタブの音が万理央の頭の中の余計な事を打ち消すように液晶画面がボンヤリと光っている部屋に響いていた。
と、メガネの蜂が言う。──ハイソウデスネ!万理央は心の中でぶっきら棒に答える。無表情にAボタンを押し続けて、この後に続くジャンプの仕方と走り方を懇切丁寧に語りかける蜂に「OK!」「OK!」と、頷き続けなければならなかった。とにかくこの部分をセーブしてしまえば、後は殆どスムーズにゲームを進める事ができるのだ。面倒くさくても、とにかく「わかった」と言い続けて先に進まなければならない。
漸くセーブできる所まで来ると万理央はやっとゲーム機を手放して窓際のテーブルへ向かった。モニターに揺れていたスクリーンセイバーがすっくと立ち上がるように引っ込んで作業画面になる。昼間に渡されたラフをスリーブデスクの下に置いたナイロンバッグから取り出し、それから、内ポケットに入れた名刺入れから新しい名刺を一枚取り出してデスクの左端においてあるカードホルダーの一番前に挿した。
「野瀬 遥 | HARUKA NOSE」
どこか野暮ったいロゴの下にその名前があった。
まさか彼女と仕事で関わり合えるとは思っていなかった。春先に人事異動があるのはよくことだし、人事異動の時季でない時でさえ万理央の担当はよく変わった。それは、万理央は面倒を起こさない方なので編集に不慣れな担当者や一時的なチーム替えのときに補助的な担当者に振り分けられることが多いせいだった。万理央は不思議に思ったことはあるけれど、特にそれで不都合があるわけでもない。何があっても自分らしくいい仕事をすればそれでいいし、担当者はその仕事で自分が何を求められているのか、その橋渡しをしてくれるだけの存在なのだ。過剰に期待してもいけないし、ぞんざいに扱ってもいけない。橋は橋でしかないけれど、橋を渡らないと見えない景色を見せてくれるのもその橋なのだ。そう教えてくれたのは初めてこの仕事を始めたときに担当をしてくれた篠原だった。
ロビーで篠原の頼もしい背を見送りエレベーターに乗った。いつもどおり一般書籍・ムック本の編集部のある階で降り、編集部に声を掛けて言われた打ち合わせ室で待っていた。やんわりとした光がグラフィックで見るみたいに本当に六角形の粒になってそこに舞っているような明るい打ち合わせ室で、窓際に置かれた鉢植えは剣のような葉をしならせていた。こういうとき、ゲームなら、この鉢の下にまずはひとつめの鍵があって…いや、簡単過ぎるか。そんなことを考えていると打ち合わせ室のドアが3回のノックともに開いた。
赤い革の名刺ケース。それはよくあるようなエナメルの赤ではなく、少しくすんだヌメ革に染色したような材質で、きっと長い間愛用しているのだと分る傷が名刺を受け取った時に見えた。名刺をやりとりすることだけはもう物慣れている風に営業用の笑顔を浮かべた彼女の顔は、先日のバーベキューで見せた笑顔の彼女と別人のように見えた。耳に掛けたボブの髪が会釈をしたときに零れたのを急いで耳に掛けたその一瞬だけ、あぁ、やっぱりあの人だ、という気がした。
世間話のように、先日のバーベキューの話も少しは出たのに、彼女はバーベキューの時のような人懐こい笑顔をどこかに置き忘れて来てしまったかのようで、万理央はなんだかいけ好かないと思った。
雀斑の小さな点々が分るほど薄い化粧も、マニキュアをしていない指先も、えくぼができる手も(そしてどうやら左手の薬指に指輪をしてはいなかった。)あの時と同じなのに、こげ茶色のジャケットや、その衿についた金色の小さなピンバッジにのった珊瑚色の石、袖口に見えるワイン色のベルトの時計、そんな物に彩られるだけでどうしてこんな風に違う人に見えるのだろう。
彼女の伏せた長い睫を思い出すと、その睫の主は何度でもバーベキューの野瀬遥になったり、打ち合わせ室の野瀬遥になったりした。そして、最後に、その睫はすっと仰向いて、万理央を上目遣いに見ながらハフハフと肉をくわえて噛み切ろうとしながら
『かたひね(かたいね)』
そう言って笑った野瀬遥になった。だから、いけ好かない、そう思った野瀬遥を打ち消すように、万理央は胸の中で言う。
(硬かった、のは、打ち合わせのときの君だよ…)
とくんとくんと胸が鳴る。パソコンのモニターの光だけがチカチカと照らす暗い一人きりの部屋。
── いくつの恋を経験したろうか?
結婚も離婚もして、この歳になっても、まだ慣れない。
(今更…)
<ジャンプ、走ル、覚エマシタカ?>
今更──?
知りすぎている。そういってもいいくらいの歳を重ねた。初めての恋からもう幾十年経ったのだろう。そして、いくつも恋を重ねて、最後の恋と決めたたったひとつの恋も成就できなかった。
歩きかたなら知っている。そして、この道を知りすぎているから、きっと、ジャンプして走って、道のさらに向こうまで行きたくなるだろう。
それでも、始まりかけた恋の動悸に感(かま)けて何も手につかないほど愚かではない。
(そんなことより…仕事。)
万理央はやっと名刺から目を逸らしてラフを見詰めた。頭の中でいくつかのアイデアを出してそれをノートに書き込んで行く。コンピューターにペンタブをセットする頃には、万理央の頭の中にはもうイラストの事しかなかった。シャカシャカと鳴るペンタブの音が万理央の頭の中の余計な事を打ち消すように液晶画面がボンヤリと光っている部屋に響いていた。