万理央♂の結婚
4面:ひとつめの鍵
 打ち合わせ室に入って三十分以上経った。あまりにも待たせ過ぎじゃないかと思うけれど編集部も色々忙しいのだろう。あと五分まってみようか、と万理央は窓の外の新緑の街路樹を見下ろした。こういう街並みがまるでパノラマのように見える写真を見た事がある。人が行ったり来たりしている風景を一頻り眺めて、やはり何かおかしいと思った万理央は、打ち合わせ室に鞄を置いたまま、もう一度編集部へ顔を出して出入り口近くの社員に事情を説明した。怪訝な顔そしてその社員が編集部の奥へと行くのを見送りながら室内を見回してみたが、野瀬遥の顔は見えなかった。編集部の一番奥のデスクで事情を知ったらしい男性が立ち上がり、万理央に会釈をしてそちらの社員あちらの社員と話をしている。やはり何か手違いがあったらしく、慌てた様子で電話をかけたり何かを探したりしているのがこちらからも見えた。

 結局、約束の時間から一時間も遅れた挙句に打ち合わせは流れて後日もう一度野瀬と打ち合わせることになった。急遽早退した野瀬遥が申し送りした社員の帰社が遅れていて何やらその辺に原因があるらしかった。野瀬が早退しなければならないのだったらそれを一言万理央に言ってくれていたら、また後日にしようとか、あるいは、30分も待つ前に何かおかしいのではないかと気付く事が出来たのに、と思うと、やっぱりいけ好かない奴だと腹立たしかった。

 そんなに非常識な人にも見えなかったのに、と残念に思う。万理央はロビーを横切りながらナイロンバッグの大きな外ポケットを弄(まさぐ)った。イヤホンコードを引っ張り出し再生ボタンを押したが、どうも気分が乗らないので、プレイリストをあっちこっち探りながら、イライラしたときにはこれが一番と思うロックをかけた。ボリュームを大きめに捻る。

 バーベキューの時、野瀬遥はよく動いていた。雑用のようなことを嫌な顔せずに自分から声をかけてやっていたし、バーベキューが終わって出版社のビルの前で解散した時にだって、彼女は自分が持てそうなダンボールをより分けながらビルと車を往復していた。地味な仕事を真面目にやるタイプに悪い奴はいないよな、と思って彼女の姿を見ていた時、野瀬遥は万理央に気がついて大きく手を振って大きな声で「こばやしさーん!お疲れ様でしたー!!」と笑った。その手が歩行者の人にぶつかりそうになって、慌てて謝っていた。
 (いい子だなあと思ったのになあ)
 万理央は眉根を寄せてコードのリモコンを手に取る。最近聴いていなかったロックが少し耳に痛かった。ボリュームをほんの少し落として溜息をつく。何か納得がいかない。そう、ちょうど、硬くて噛み切れない肉がいつまでも口の中に残っているような気持ち悪さだった。

 自宅に帰って、万理央は何をするとも無くゲーム機を手にした。苛立ちを紛らわすように、小太りの男を走らせる。まずはあの、裏庭にいる兎の一羽が持っている鍵を入手しなければならない。池に落ちたり、坂を転げ落ちたりすることがあるけれど、実際に自分が痛い訳でもなし、とにかく辛抱強くあの兎を追いかけ続けてタイミングよく捕まえて、鍵をよこせ!と言えばよい。
 そうは言うものの久々に捕まえる兎は思いのほか手強かった。同じゲーム機でもソフトが違ったり、ゲーム機が違えばもちろん(ある程度似てはいるものの)、歩く・走るなどの基本的な動作の操作すら少しずつ違ったりする。久々に動かす小太りの男は、以前と違ってどうも運動不足のような動き方で、走る方向を間違えたり、スピードが出なかったり、逆に出すぎたり、捕まえる瞬間に飛ぶ方向を間違えたりして、うまく兎を捕らえることができず万理央は苛立った。操作ボタンを動かしている親指の皮膚がヒリヒリと痛い。
 「今日はこれで捕まえられなかったら止めよう」と思いながら止めることができずに、それでもやっとその「最後」から2度目の挑戦で兎を捕まえることができた。ひとつめの鍵。これがなければゲームはまだ始まったとは言えない。
 兎から鍵を受け取った小太りの男がそんなときばかり身軽にくるんとターンして青空に鍵を高く掲げる。褒めてやりたいがそんな気も起きないほど疲れた万理央はとりあえず鍵を持たせたままゲーム機を置いて頭をモサモサと掻きながら立ち上がった。薄暗いキッチンで冷蔵庫が唸っている。
 冷蔵庫を開けてがっくりする。水が冷えていない。万理央はサービスバルコニーの物入れからネットショップで定期購入しているボトルの水を半ダース程取り出し冷蔵庫に入れて、冷えていない1本を持ってリビングに戻った。

 (実際に痛い目に遭うわけではないとはいっても…)
 と、万理央はペットボトルを持った右手の親指を左手でつまむように摩った。まるでその親指はゲームの中の小太りの男の疲れや痛みが凝縮しているように凝っていて皮膚も痛い。こんな思いまでしてこのゲームを続けようと思う自分の馬鹿加減にほとほと呆れる。この労力を別の方向に使ったらきっとものすごい傑作が出来るような気がするのに、とこうやってゲームに夢中になるたびに思うのだった。
 
 そして、ゲームをやっている間には忘れていた別の苛立ちがまた万理央の脳裏に去来する。いけ好かない、と思う気持ちと、それを打ち消したい気持ちが鬩(せめ)ぎあう、心のどこかがひりひりと痛かった。


 
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