万理央♂の結婚
6面:ワンナップ
もともとの打ち合わせの日の申し送りの不手際。そして今回の印刷の問題。度重なる野瀬遥の仕事の態度に万理央は心底がっかりしていた。社会人になって何年だ?少なくとも10年は経っているはずだ。こんな新人OLのようなことを繰り返すなんて。
万理央は知らず知らずの内にぐぅっと奥歯を噛み締めていた。ほんの一瞬自動ドアに写った自分の額に青筋が立っているように見えて、万理央は額に手を当てる。落ち着こうと思うのに何か酷く苛立って収まりがつかなかった。苛々とビルを出てひと駅くらい歩こうと思っていると後ろから万理央を呼ぶ声が聞こえた。
「小林君、小林君」
篠原だ。春らしい明るい色のジャケットを翻しながら走ってくる。結構な年だと思うのに、と思うと、待っている訳にもいかない気がして万理央は篠原の方へ小走りで戻って行った。
「篠原さん…!こんにちは!」
「お疲れ様。打ち合わせ、終わったの?」
「ええ。」
「これからまだどこかへ?」
「いえ、今日はもう終わりです。」
「良かった。昼飯一緒にどう?」
「あぁ、いいですねえ。…あれ、篠原さん、休日出勤ですか?」
「うん。」
爽やかに笑う篠原はとても若々しい。白髪の混じった短髪をぐっとなで上げて眩しそうに目を細めた。
こんな都会にと思うような路地を入って小さな定食屋の暖簾を潜った。あまり綺麗な店ではないが常連客が集いそうな店だ。定食のお品書きはない。黄色くやけたお品書きはどれも夜のメニューらしかった。だまって水のグラスが出てきて、熱いおしぼりが置かれる。篠原は何も言わずにおしぼりで手を拭いていた。
「娘が彼氏を連れて来る。」
篠原は唐突に言った。万理央は頂きます、と合わせた手を解いて箸を掴み篠原を見た。何も言わないで出てくる定食はどうやら日替わり定食で、昼はその一食しかやっていないようだった。どうりでお品書きがない訳だ。
「いよいよですか。」
万理央は汁物のお椀を手にして言った。
「どうだろうな、いよいよかもな。」
篠原も汁物の具を箸で除けながら一口啜った。
「なんだろうなあ。世に言う娘を取られた気分というのとも違う気がするのだけどね。妻には色々話しているのを私も聞いているから、まだそうと決まった訳でもないけれど、結婚となったら本当にこいつで良いのかって念を押したくなる感じでね。」
「あまり賛成じゃないんですか?」
「彼にはまだ会った事がないからね、なんとも言えないんだけれど…。結婚前からなんだかんだと文句を言っている娘を見ていると、どうせ結婚してもどうなんだかな、ってさ。」
「最近の若者は我慢という奴を知りませんからね。戸籍を汚すくらい何だ、という感じだから。」
「おいおい、それは君だろう?」
二人は笑って汁椀を置いた。苦々しい想いも最近やっと少しずつ笑い話にできるようになった。
──何が気に入らなかったのだろう。
今でも思い出す事がある。何も話し合う事無く分かれてしまったから、何が悪かったのかすら分らずに終わってしまった結婚生活は、どこか非現実的で、結婚したというよりもただひとつの恋愛が終わっただけのようなそんな気もした。大学時代の恋愛の方がまだ結婚生活よりも長くそして所帯じみていたと思える程。
ひとつの恋が終わってもまたひとつの恋を飽きもせずに始めて、そしていつか恋や愛から遠ざかったとしても、こんな風に思い出の中を行ったり来たりするのが人生だろうか。
そして、もやもやと恋心を育てることも出来ずにいる今の自分のような男でも、小さな幸せを感じることが出来る。
久しぶりに家庭的な味を食し心の中まで温まるようにほっとした。こうして人の手の温もりを感じる食事をした後では、仕事のいざこざも大したことではないと思えるから不思議だ。自分はなんて単純な人間なんだろうと思う。──もう少し頑張れる。
小さなジョウロで植木鉢に水をやるように、小さな幸せを心に満たしながら、見る人によってどうとでも取れるような生き方も、万理央はそれでもやっぱり幸せは幸せだと思う気持ちを失わないでいる。
万理央は知らず知らずの内にぐぅっと奥歯を噛み締めていた。ほんの一瞬自動ドアに写った自分の額に青筋が立っているように見えて、万理央は額に手を当てる。落ち着こうと思うのに何か酷く苛立って収まりがつかなかった。苛々とビルを出てひと駅くらい歩こうと思っていると後ろから万理央を呼ぶ声が聞こえた。
「小林君、小林君」
篠原だ。春らしい明るい色のジャケットを翻しながら走ってくる。結構な年だと思うのに、と思うと、待っている訳にもいかない気がして万理央は篠原の方へ小走りで戻って行った。
「篠原さん…!こんにちは!」
「お疲れ様。打ち合わせ、終わったの?」
「ええ。」
「これからまだどこかへ?」
「いえ、今日はもう終わりです。」
「良かった。昼飯一緒にどう?」
「あぁ、いいですねえ。…あれ、篠原さん、休日出勤ですか?」
「うん。」
爽やかに笑う篠原はとても若々しい。白髪の混じった短髪をぐっとなで上げて眩しそうに目を細めた。
こんな都会にと思うような路地を入って小さな定食屋の暖簾を潜った。あまり綺麗な店ではないが常連客が集いそうな店だ。定食のお品書きはない。黄色くやけたお品書きはどれも夜のメニューらしかった。だまって水のグラスが出てきて、熱いおしぼりが置かれる。篠原は何も言わずにおしぼりで手を拭いていた。
「娘が彼氏を連れて来る。」
篠原は唐突に言った。万理央は頂きます、と合わせた手を解いて箸を掴み篠原を見た。何も言わないで出てくる定食はどうやら日替わり定食で、昼はその一食しかやっていないようだった。どうりでお品書きがない訳だ。
「いよいよですか。」
万理央は汁物のお椀を手にして言った。
「どうだろうな、いよいよかもな。」
篠原も汁物の具を箸で除けながら一口啜った。
「なんだろうなあ。世に言う娘を取られた気分というのとも違う気がするのだけどね。妻には色々話しているのを私も聞いているから、まだそうと決まった訳でもないけれど、結婚となったら本当にこいつで良いのかって念を押したくなる感じでね。」
「あまり賛成じゃないんですか?」
「彼にはまだ会った事がないからね、なんとも言えないんだけれど…。結婚前からなんだかんだと文句を言っている娘を見ていると、どうせ結婚してもどうなんだかな、ってさ。」
「最近の若者は我慢という奴を知りませんからね。戸籍を汚すくらい何だ、という感じだから。」
「おいおい、それは君だろう?」
二人は笑って汁椀を置いた。苦々しい想いも最近やっと少しずつ笑い話にできるようになった。
──何が気に入らなかったのだろう。
今でも思い出す事がある。何も話し合う事無く分かれてしまったから、何が悪かったのかすら分らずに終わってしまった結婚生活は、どこか非現実的で、結婚したというよりもただひとつの恋愛が終わっただけのようなそんな気もした。大学時代の恋愛の方がまだ結婚生活よりも長くそして所帯じみていたと思える程。
ひとつの恋が終わってもまたひとつの恋を飽きもせずに始めて、そしていつか恋や愛から遠ざかったとしても、こんな風に思い出の中を行ったり来たりするのが人生だろうか。
そして、もやもやと恋心を育てることも出来ずにいる今の自分のような男でも、小さな幸せを感じることが出来る。
久しぶりに家庭的な味を食し心の中まで温まるようにほっとした。こうして人の手の温もりを感じる食事をした後では、仕事のいざこざも大したことではないと思えるから不思議だ。自分はなんて単純な人間なんだろうと思う。──もう少し頑張れる。
小さなジョウロで植木鉢に水をやるように、小さな幸せを心に満たしながら、見る人によってどうとでも取れるような生き方も、万理央はそれでもやっぱり幸せは幸せだと思う気持ちを失わないでいる。