やくたたずの恋
 この前も彼から漂っていた香りが、雛子へと近づいてくる。夜の静寂をそのまま形にした香り。それに包まれるのを感じた瞬間、雛子は恭平の手に引き寄せられていた。
 行き着いた先は、彼の胸だ。固く引き締まった彼の筋肉が、服を通して雛子の体へと伝わってくる。あたたかくも強い恭平の腕に包み込まれてしまえば、雛子は驚くことしかできなかった。
「きょ、恭平さん?」
「黙れ」
 恭平の短い言葉に、どくん、と鼓動が反応する。それは雛子の心や体の至る所で、静かな火種となっていった。どくんどくん、と全身が脈打ち、恭平にもそのシグナルを伝えていく。
 雛子の背中にある彼の両手は、新雪に跡をつけるように滑らかに動く。その片手が雛子の顎へとやって来ると、恭平の顔が一気に近づいた。
 それはこの前も見た、彼の美しい顔だった。「シホ」と呟いた、あの時の彼だ。
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