やくたたずの恋

     * * *


 どうやってここまで辿り着いたのか、はっきりとは覚えていない。タクシーには乗ったような気がする。最寄りの地下鉄の駅前まで走り、そこに流れてきたタクシーを拾ったような気はするのだが。
 つまりここに来たのは、ほぼ無意識だ。ここしか、来るべき場所がなかった。
 雛子は『Office Camellia』の事務所があるマンションの前で、立ち尽くしていた。バッグの中では、携帯電話が何度も音を鳴らしている。きっと父や母からの着信だろうが、電話を取る気にもなれない。
 夜の中で白く浮かび上がるマンションに入り、エレベーターで11階のフロアへと降り立つ。すぐさま『Office Camellia』の部屋へと向かい、何かに駆られるようにチャイムを連打した。
 苛立ちの音を立てて、ドアが開く。覗いた恭平の顔にも、イライラした雰囲気が宿っていた。だが、そこに立っているのが雛子だと気づけば、それは一瞬で驚きの色に変わる。
「どうしたんだ? 今日は星野さんのところから、直帰したんだろ?」
 雛子は何も答えず、恭平に抱きついた。その体はガタガタと震えている。それが周りの夜の空気をも振動させていた。恭平はドアを体で押さえつけながら、雛子の背中を撫でる。
「……何かあったのか? 志帆にまた、余計なことを言われたとか……」
「違う! 違うんです! 影山のおじ様が……私を……」
「親父が? 俺の親父が……どうしたんだ!?」
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