いろんなお話たち
■
「せ~んぱい」
自分よりも幾分か低い体温の小さな手が手の甲に触れ、ぞくっとしたかと思えば、横を見れば一年生のちはやちゃんがいた。
ちはやちゃんは自分で扱ぐ主動車椅子に乗っている。
ただ骨の病気ゆえ、年にそぐわず体が小さいのだけど元気いっぱいな女の子。
「わっ ちはやちゃんかぁ……もう、脅かさないでよー」
「気付かない七海さんが悪いんです」
「…いつもながら、触り方がえっちだね」
皮肉で言ったつもりが、
「そーゆーこと考える七海さんこそ!」
とちはやちゃんはケラケラ笑いながら膝上の紙袋を細い両腕で持ち上げて大変そうにこちらに差し出した。
大変そうな動作に、慌てて「ありがとう」と……動くほうの片手で受け取る。
「なに…これ、まんが?」
やや袋を傾けながら机の上に置き、受けとった物を見る。
パンパンの紙袋越しの感触はかたく、蓋があいてる上から見ると何やらピンクの表紙にかわいらしい女の子が描かれてる。
「あれ、もしかして七海さん知らないんですかぁ?」
「うん。」
題名を見てみる……何々、【甘美な僕くん】?
「それですね…来年ドラマ化する執事漫画なんですよ!」
「ひつじ…?」
「執事ですっ! もう…七海さん業と間違えてるでしょ?」
ぎくりとする私に、
「バレバレですから」とちはやちゃんは白く小さな指を立て…、
「エロい先輩にお勧めなので暫く貸します!返却はいつでもいいのでー…!」
というような事を言いながら車椅子を颯爽と扱いで教室を飛び出し、どこかに行ってしまった。
は…速いっ。
さすがに今のセリフ、自分で言って恥ずかしくなったのかな。
「(とは言ってもなぁ…どうしよコレ)」
帰りのバスの中。
足下に置いた紙袋に手を突っ込み一番上のコミックを取ってページをパラパラとめくる。
グーの状態で動かない右手でページを押さえながら読んでみるけれど、がばっと開かないぶん、読みづらいので結局自由に動く左手の方で丸めるようにして持ちながらページをめくった。
中学生の女の子がひょんなことから財閥のお嬢様になりイケメン執事と共に一流のお嬢様学校へ通う……どこにでもあるような話だ。
文学少女という訳ではないけど結構本とかも読むのでそれなりに知識はあった。
ふうん…とだけ思い、閉じる。
「……」
最近の少女漫画って本当に要らない展開が増えたと思う。
なぜお嬢様学校で性教育が? …いやいや大事なんだろうけども(まだ)一巻でこの内容て……これシリーズモノっぽいから恐らく紙袋の中全部これなんだろうけど…、まずいなぁ……どうしよう……。
「(とにかく、この荷物だけは死守せねば。久登さんはともかくクラウスさんに見つかったら……)」
『ほう…もしや私共で卑下な想像をなさってはいませんよね?』
……あり得るあり得るあり得る!!
黒い笑みを浮かべた彼の顔が思い浮かび思わず胸にコミックを抱え込む。
バスが少し荒れた道を走った時、古いシートが痛んでる備え付けの椅子がガタガタと揺れた。
16時30分。
少し早めに到着した公園(自宅からは行きか帰りのどちらかだけ。私の場合帰りの停留所はここになる)には……見なれた自家用車が止まってた。
バスが停まる。
「…」
見覚えがある車にホッとしつつ手すりを掴んで立ち上がる。
足元に置いた紙袋は椅子の上に置いて。
上の棚に置いてあるスポーツバッグの肩ひも部分を掴み引き寄せるようにして持ってから、ななめに肩にかける。
紙袋はそのまま開いている左手で持った。
狭いからという理由で後ろの昇降機から降りることもできるけど、私は前から降りていた。
「…あれ、お母さん。お久しぶりです」
少し驚いたように先に外にいた朝香さんが言った後で、
「お帰りなさい」
眼と眼が合い、出迎える母の声。
「ただいま」
「珍しいねお母さんが来るなんて」
「…偶にはね」
一段一段、階段を下りるなかでいつも通りのはずなのだけど、やっぱり紙袋の存在が気になる。
完全におりてからお母さんならいっか、と思い預けた。
持って。
紙袋をかかげれば言わなくてもお母さんが持ってくれる。
「ありがと」
「じゃあバイバイ、みゆちゃん。また明日ー」
「有り難うございました」
手を振る朝香さんに一礼。
バスのドアがしまり、エンジンをふかし去っていく。
手を振りながらそれを見送った。
「なんなの? これ」
母の問いに、
「ちはやちゃんに借りたの。なんか流行ってるんだって」
言いながら手持無沙汰で鞄に提げてるぬいぐるみを触る。
「……では私が持ちましょう」
横から飛び入りの声に母の手にあったはずの紙袋が消え私は慌てて振り返った。
…クラウスさん…!?
「あ、や、いっいいですいいです!」
慌てて気持ち早く体重を前にかけながら、足を動かし彼の下へ行く。
「? どうしたんです、何をそんなに慌てているのですか」
目をまんまるにして驚いたようにクラウスさんは言ったが紙袋を持つ手は高く上げられている…意地悪…。
「それっ後輩に借りた漫画でっ、えっ…」
「え?」
エッチな執事モノらしいから、だめえ!!
「……~~、」
とは。
流石に口に出す訳にはいかない。
バッグの太い肩紐を握りしめる。
「……わ、私が持ちたい…の、だからいいでしょう!?」
「ええ。それは勿論……構いませんが」
首を傾げながら高く掲げた紙袋をするすると下ろすクラウスさん。
「…すぐ車に乗るのにお持ちになると? 余程お読みになりたいのですね」
にっこりと笑う様に私は敗北を身に感じた。
ぼっ墓穴を掘ってしまっ…!!
「どのような内容なのでしょうか? 私も気になります」
「だだだダメっ!!」
その長い指を縁に引っ掛け中を覗き込む様に私の口から思わず悲鳴が上がる。
「みゆっさっきからあんた何騒いでるの!?」
母の声にはっと我に帰り片足を軸にして体を回転させ、車に向かう。
最悪だ…気分はとぼとぼと。
「早く!」
「わ…分かってるよっ」
そんなに距離はないのですぐに母の元へつく。
ごめんと謝ると、
「奥様、みゆ様は悪くありません。私がお引き止めしたのです」
あっさりと追い付いたのであろうクラウスさんの声がした。
クラウスさんは私の横を過ぎ車のドアを開け私が肩からはずし手渡したバッグを助手席の上に置き、隣に紙袋を置く。
「私がお乗せしますので奥様はどうぞ後ろに」
恭しく頭を下げる彼に従い、
「そう? 悪いわねー」
と母は笑いながら後部座席に乗り込んだ。
お母さん…! 楽したいのは分るけど…!
「……さあ、みゆ様」
そう言い膝を折ってしゃがみ手を広げ姿勢をとるクラウスさん。
私は首を振る。
自分で乗れるのに、なんでわざわざ抱えあげられなきゃいけないの?
後退しようとした所でこちらの腕を掴み、
「何故?」
と笑顔で問うた彼が悪魔に見えた。
有無を言わさず背中に腕が、
「や…」
黒い燕尾服の胸元に手をあてるとクラウスさんの端整な顔が近づき、
「……みゆ」
髪越しに低い声が鼓膜に響いた。
「っ!?」
びっくりして固まっていると、
「心配しなくても久登の奴には話さない…二人で読もう?」
唇が離れても近い距離で黒眼が見据えてくる。
両手ともクラウスさんの手によりその首に回されて体が浮く感覚。
流れる視界に頭がくらくらした。
「本日はどのように過ごされたんですか?」
窓越しに流れる視界。
それを見ながら返事を返すとそっけないものになってしまった。
仕方ない。
助手席というだけで居心地悪いのに今日は尚更だった。
クラウスさんがくすりと笑う気配がする。
…嗚呼もう…早く着かないかな。
一方が迎えの場合もう一方は部屋まで同行。
だから今日は久登さんと部屋に行く筈。
そう思っていたのに
「いっいいです! クラウスさんいいですから! 降ろして下さい!」
「承諾しているのか否なのか判りませんが」
「やだって言ってるんです!!」
「――では降ろしま」
不穏な声と共にぴたりと足が止まり慌てて私は首に巻き付けていた左手で彼の服を掴んだ。
「うぅ…連れて行って下さい」
首筋に縋りつくように顔を寄せる私に冗談ですよとどこか楽しそうな声。
悔しい…後ろでは鞄と紙袋を持つ久登さんが平然と立っている(荷物持ちにしてごめん…)。
止めてくれるかと思ったのに存外役に立たないのね。
胸中で嘆息する中私はクラウスさんに車から横抱きで部屋に運ばれるという二度と体験したくもない経験をした。
しかも。
「クラウスさん……いつまでそこにいるんですか?」
明日の用意も終わり、暇だから借りた漫画でも読もうと紙袋を枕元に置いたところで、ドア付近にいた彼に気付き声をかけるとにこりとクラウスさんは笑み。
「私もご一緒して宜しいですか」
返事をする前につかつかと歩み寄ってきて私の側に腰を下ろす。
ギシリと軋む音を妙に意識してしまい、
「ちょっ、まっ……!」
紙袋に手を入れ一冊取り出すのを半ば呆然と見送ってしまった。
ピンクの表紙、少女漫画にありがちな大きな眼の可愛らしい女の子。
そして彼女の横に並ぶスワロウテール姿の青年……。
「ふむ…字は違えども同じ"みゆ"なのですね」
ぱらりと何ページか見て呟くようにそう言い。
「美優様」
「なに?」
発音が同じなので最初は全く違いに気付かず返事をしてしまった。
と、同時にとんと体を押され倒れる。
天井だけの視界にクラウスさんが現れ、
「…は?」
意味が分からない。
「お召し替え致しましょう」
言うなり彼は私の服に手をかけ、
「ぎゃああああっ久登さん――!!」
「みゆ様、如何されました!?」
……。
くすくすと笑うクラウスさんをきっと睨むと彼はすみませんと謝りながらも口端が上がっている。
…オイ。
「…少女漫画というのは初めて見たが、こんな内容なのか」
それまで静かに読書していた久登さんが顔を上げるなりそう呟く。
彼の横には積み重ねられた執事漫画。
「ええっ! もう読み終わったの?」
「…一通りは」
そんな…いちいち出てくるえろシーンにこっちは苦労してるのに。
私の心の声が読めたのか、彼はごく自然と「すべての頁が不埒な行為で満たされている訳ではないのだから平気だろう」、と。
先程女らしさを捨てた悲鳴に駆け付けてくれた久登さんは私達を見て束の間固まって。
再度名を読んだ私にはっとしたらしく直にクラウスさんを叱責した。
だがクラウスさん曰く、
「漫画の場面を再現しただけ」。
じゃあどんな内容なんだと私の隣に久登さんは座り。
まぁ内容程ではない、別に駆けつける必要はなかったか? とのたまった(そんなことはない! 助かったよ!)。
「うえぇ…後4冊もある…」
つまり5巻まで貸してくれたのねちはやちゃん。
久登さんと私の間にある(クラウスさんは少し離れた所で直立)漫画の一番上の頁をぱらぱら捲りながら息を吐いた。
「…みゆ様も水臭いお方ですね」
「……そうだな」
不意にクラウスさんがぽつりと言ったかと思えば久登さんは首肯。
なんだと思えば。
「性知識に興味があるなら教えてやる。学校では憚れる内容もここでは自由だ」
「……いやいや久登さん。仰る意味がよく分からないのですが」
まるで私が変態だと宣ってないか!?
失礼な!
私は痴女なんかじゃない!
「10代は多感だ。何も恥ずかしがる事はない」
「だから決め付けないで下さいよ!」
というかさっきから敬語無くなってないか!?
「~~そもそもっ! そういう二人こそ欲求不満なんじゃないの!?」
びっと二人を交互に指差す。
「執事もSPも大変だよねぇ、休みが全くないもん。女関係が乏しいからそうやって私をからかうんでしょ」
よくよく考えれば凄く失礼な事を言ったと思う。
でも四六時中側にいる彼らが不憫に思えるのはいつもだ。
だってこんな職業じゃなきゃ普段は絶対沢山の美女を侍らせてるよ。
「お言葉ですが貴女に心配されなくともめぼしい相手ぐらい居ます」
「……。俺は純粋にお前しか興味がない」
「(クラウスさんはいいとして)……久登さん今度合コン行こう。わかちゃんの知り合いの大学生にでも頼んでみるから」
「何故?」
「せ~んぱい」
自分よりも幾分か低い体温の小さな手が手の甲に触れ、ぞくっとしたかと思えば、横を見れば一年生のちはやちゃんがいた。
ちはやちゃんは自分で扱ぐ主動車椅子に乗っている。
ただ骨の病気ゆえ、年にそぐわず体が小さいのだけど元気いっぱいな女の子。
「わっ ちはやちゃんかぁ……もう、脅かさないでよー」
「気付かない七海さんが悪いんです」
「…いつもながら、触り方がえっちだね」
皮肉で言ったつもりが、
「そーゆーこと考える七海さんこそ!」
とちはやちゃんはケラケラ笑いながら膝上の紙袋を細い両腕で持ち上げて大変そうにこちらに差し出した。
大変そうな動作に、慌てて「ありがとう」と……動くほうの片手で受け取る。
「なに…これ、まんが?」
やや袋を傾けながら机の上に置き、受けとった物を見る。
パンパンの紙袋越しの感触はかたく、蓋があいてる上から見ると何やらピンクの表紙にかわいらしい女の子が描かれてる。
「あれ、もしかして七海さん知らないんですかぁ?」
「うん。」
題名を見てみる……何々、【甘美な僕くん】?
「それですね…来年ドラマ化する執事漫画なんですよ!」
「ひつじ…?」
「執事ですっ! もう…七海さん業と間違えてるでしょ?」
ぎくりとする私に、
「バレバレですから」とちはやちゃんは白く小さな指を立て…、
「エロい先輩にお勧めなので暫く貸します!返却はいつでもいいのでー…!」
というような事を言いながら車椅子を颯爽と扱いで教室を飛び出し、どこかに行ってしまった。
は…速いっ。
さすがに今のセリフ、自分で言って恥ずかしくなったのかな。
「(とは言ってもなぁ…どうしよコレ)」
帰りのバスの中。
足下に置いた紙袋に手を突っ込み一番上のコミックを取ってページをパラパラとめくる。
グーの状態で動かない右手でページを押さえながら読んでみるけれど、がばっと開かないぶん、読みづらいので結局自由に動く左手の方で丸めるようにして持ちながらページをめくった。
中学生の女の子がひょんなことから財閥のお嬢様になりイケメン執事と共に一流のお嬢様学校へ通う……どこにでもあるような話だ。
文学少女という訳ではないけど結構本とかも読むのでそれなりに知識はあった。
ふうん…とだけ思い、閉じる。
「……」
最近の少女漫画って本当に要らない展開が増えたと思う。
なぜお嬢様学校で性教育が? …いやいや大事なんだろうけども(まだ)一巻でこの内容て……これシリーズモノっぽいから恐らく紙袋の中全部これなんだろうけど…、まずいなぁ……どうしよう……。
「(とにかく、この荷物だけは死守せねば。久登さんはともかくクラウスさんに見つかったら……)」
『ほう…もしや私共で卑下な想像をなさってはいませんよね?』
……あり得るあり得るあり得る!!
黒い笑みを浮かべた彼の顔が思い浮かび思わず胸にコミックを抱え込む。
バスが少し荒れた道を走った時、古いシートが痛んでる備え付けの椅子がガタガタと揺れた。
16時30分。
少し早めに到着した公園(自宅からは行きか帰りのどちらかだけ。私の場合帰りの停留所はここになる)には……見なれた自家用車が止まってた。
バスが停まる。
「…」
見覚えがある車にホッとしつつ手すりを掴んで立ち上がる。
足元に置いた紙袋は椅子の上に置いて。
上の棚に置いてあるスポーツバッグの肩ひも部分を掴み引き寄せるようにして持ってから、ななめに肩にかける。
紙袋はそのまま開いている左手で持った。
狭いからという理由で後ろの昇降機から降りることもできるけど、私は前から降りていた。
「…あれ、お母さん。お久しぶりです」
少し驚いたように先に外にいた朝香さんが言った後で、
「お帰りなさい」
眼と眼が合い、出迎える母の声。
「ただいま」
「珍しいねお母さんが来るなんて」
「…偶にはね」
一段一段、階段を下りるなかでいつも通りのはずなのだけど、やっぱり紙袋の存在が気になる。
完全におりてからお母さんならいっか、と思い預けた。
持って。
紙袋をかかげれば言わなくてもお母さんが持ってくれる。
「ありがと」
「じゃあバイバイ、みゆちゃん。また明日ー」
「有り難うございました」
手を振る朝香さんに一礼。
バスのドアがしまり、エンジンをふかし去っていく。
手を振りながらそれを見送った。
「なんなの? これ」
母の問いに、
「ちはやちゃんに借りたの。なんか流行ってるんだって」
言いながら手持無沙汰で鞄に提げてるぬいぐるみを触る。
「……では私が持ちましょう」
横から飛び入りの声に母の手にあったはずの紙袋が消え私は慌てて振り返った。
…クラウスさん…!?
「あ、や、いっいいですいいです!」
慌てて気持ち早く体重を前にかけながら、足を動かし彼の下へ行く。
「? どうしたんです、何をそんなに慌てているのですか」
目をまんまるにして驚いたようにクラウスさんは言ったが紙袋を持つ手は高く上げられている…意地悪…。
「それっ後輩に借りた漫画でっ、えっ…」
「え?」
エッチな執事モノらしいから、だめえ!!
「……~~、」
とは。
流石に口に出す訳にはいかない。
バッグの太い肩紐を握りしめる。
「……わ、私が持ちたい…の、だからいいでしょう!?」
「ええ。それは勿論……構いませんが」
首を傾げながら高く掲げた紙袋をするすると下ろすクラウスさん。
「…すぐ車に乗るのにお持ちになると? 余程お読みになりたいのですね」
にっこりと笑う様に私は敗北を身に感じた。
ぼっ墓穴を掘ってしまっ…!!
「どのような内容なのでしょうか? 私も気になります」
「だだだダメっ!!」
その長い指を縁に引っ掛け中を覗き込む様に私の口から思わず悲鳴が上がる。
「みゆっさっきからあんた何騒いでるの!?」
母の声にはっと我に帰り片足を軸にして体を回転させ、車に向かう。
最悪だ…気分はとぼとぼと。
「早く!」
「わ…分かってるよっ」
そんなに距離はないのですぐに母の元へつく。
ごめんと謝ると、
「奥様、みゆ様は悪くありません。私がお引き止めしたのです」
あっさりと追い付いたのであろうクラウスさんの声がした。
クラウスさんは私の横を過ぎ車のドアを開け私が肩からはずし手渡したバッグを助手席の上に置き、隣に紙袋を置く。
「私がお乗せしますので奥様はどうぞ後ろに」
恭しく頭を下げる彼に従い、
「そう? 悪いわねー」
と母は笑いながら後部座席に乗り込んだ。
お母さん…! 楽したいのは分るけど…!
「……さあ、みゆ様」
そう言い膝を折ってしゃがみ手を広げ姿勢をとるクラウスさん。
私は首を振る。
自分で乗れるのに、なんでわざわざ抱えあげられなきゃいけないの?
後退しようとした所でこちらの腕を掴み、
「何故?」
と笑顔で問うた彼が悪魔に見えた。
有無を言わさず背中に腕が、
「や…」
黒い燕尾服の胸元に手をあてるとクラウスさんの端整な顔が近づき、
「……みゆ」
髪越しに低い声が鼓膜に響いた。
「っ!?」
びっくりして固まっていると、
「心配しなくても久登の奴には話さない…二人で読もう?」
唇が離れても近い距離で黒眼が見据えてくる。
両手ともクラウスさんの手によりその首に回されて体が浮く感覚。
流れる視界に頭がくらくらした。
「本日はどのように過ごされたんですか?」
窓越しに流れる視界。
それを見ながら返事を返すとそっけないものになってしまった。
仕方ない。
助手席というだけで居心地悪いのに今日は尚更だった。
クラウスさんがくすりと笑う気配がする。
…嗚呼もう…早く着かないかな。
一方が迎えの場合もう一方は部屋まで同行。
だから今日は久登さんと部屋に行く筈。
そう思っていたのに
「いっいいです! クラウスさんいいですから! 降ろして下さい!」
「承諾しているのか否なのか判りませんが」
「やだって言ってるんです!!」
「――では降ろしま」
不穏な声と共にぴたりと足が止まり慌てて私は首に巻き付けていた左手で彼の服を掴んだ。
「うぅ…連れて行って下さい」
首筋に縋りつくように顔を寄せる私に冗談ですよとどこか楽しそうな声。
悔しい…後ろでは鞄と紙袋を持つ久登さんが平然と立っている(荷物持ちにしてごめん…)。
止めてくれるかと思ったのに存外役に立たないのね。
胸中で嘆息する中私はクラウスさんに車から横抱きで部屋に運ばれるという二度と体験したくもない経験をした。
しかも。
「クラウスさん……いつまでそこにいるんですか?」
明日の用意も終わり、暇だから借りた漫画でも読もうと紙袋を枕元に置いたところで、ドア付近にいた彼に気付き声をかけるとにこりとクラウスさんは笑み。
「私もご一緒して宜しいですか」
返事をする前につかつかと歩み寄ってきて私の側に腰を下ろす。
ギシリと軋む音を妙に意識してしまい、
「ちょっ、まっ……!」
紙袋に手を入れ一冊取り出すのを半ば呆然と見送ってしまった。
ピンクの表紙、少女漫画にありがちな大きな眼の可愛らしい女の子。
そして彼女の横に並ぶスワロウテール姿の青年……。
「ふむ…字は違えども同じ"みゆ"なのですね」
ぱらりと何ページか見て呟くようにそう言い。
「美優様」
「なに?」
発音が同じなので最初は全く違いに気付かず返事をしてしまった。
と、同時にとんと体を押され倒れる。
天井だけの視界にクラウスさんが現れ、
「…は?」
意味が分からない。
「お召し替え致しましょう」
言うなり彼は私の服に手をかけ、
「ぎゃああああっ久登さん――!!」
「みゆ様、如何されました!?」
……。
くすくすと笑うクラウスさんをきっと睨むと彼はすみませんと謝りながらも口端が上がっている。
…オイ。
「…少女漫画というのは初めて見たが、こんな内容なのか」
それまで静かに読書していた久登さんが顔を上げるなりそう呟く。
彼の横には積み重ねられた執事漫画。
「ええっ! もう読み終わったの?」
「…一通りは」
そんな…いちいち出てくるえろシーンにこっちは苦労してるのに。
私の心の声が読めたのか、彼はごく自然と「すべての頁が不埒な行為で満たされている訳ではないのだから平気だろう」、と。
先程女らしさを捨てた悲鳴に駆け付けてくれた久登さんは私達を見て束の間固まって。
再度名を読んだ私にはっとしたらしく直にクラウスさんを叱責した。
だがクラウスさん曰く、
「漫画の場面を再現しただけ」。
じゃあどんな内容なんだと私の隣に久登さんは座り。
まぁ内容程ではない、別に駆けつける必要はなかったか? とのたまった(そんなことはない! 助かったよ!)。
「うえぇ…後4冊もある…」
つまり5巻まで貸してくれたのねちはやちゃん。
久登さんと私の間にある(クラウスさんは少し離れた所で直立)漫画の一番上の頁をぱらぱら捲りながら息を吐いた。
「…みゆ様も水臭いお方ですね」
「……そうだな」
不意にクラウスさんがぽつりと言ったかと思えば久登さんは首肯。
なんだと思えば。
「性知識に興味があるなら教えてやる。学校では憚れる内容もここでは自由だ」
「……いやいや久登さん。仰る意味がよく分からないのですが」
まるで私が変態だと宣ってないか!?
失礼な!
私は痴女なんかじゃない!
「10代は多感だ。何も恥ずかしがる事はない」
「だから決め付けないで下さいよ!」
というかさっきから敬語無くなってないか!?
「~~そもそもっ! そういう二人こそ欲求不満なんじゃないの!?」
びっと二人を交互に指差す。
「執事もSPも大変だよねぇ、休みが全くないもん。女関係が乏しいからそうやって私をからかうんでしょ」
よくよく考えれば凄く失礼な事を言ったと思う。
でも四六時中側にいる彼らが不憫に思えるのはいつもだ。
だってこんな職業じゃなきゃ普段は絶対沢山の美女を侍らせてるよ。
「お言葉ですが貴女に心配されなくともめぼしい相手ぐらい居ます」
「……。俺は純粋にお前しか興味がない」
「(クラウスさんはいいとして)……久登さん今度合コン行こう。わかちゃんの知り合いの大学生にでも頼んでみるから」
「何故?」