CROW
CROW
0:序
佐々木加奈は、メジャーを腕に絡ませたまま床に座り込んでいた。
上半身で、側の椅子に寄りかかるようにして居眠りをしていたのだ。
頭は、三日ばかりの徹夜もどきのせいで、沼よりも深く淀んでいた。
服には糸くず布切れ、足の指先3センチの位置には、裁ちバサミが転がっている始末。
10秒歩けば仮眠室にたどり着けるというのに、それすらできないままだった。
「うー……」
自分が、いまひどいうなり声を上げたことにすら気づけずに、加奈は頭に当たる椅子の感触でさえ、気持ちいいと思いかけていた。
部屋の外を、人がせわしげに歩いていく。
声も聞こえる。
しかし、彼らにとってこの部屋はどうでもいいことのようで、誰もドアを開けようとはしなかった。
一枚隔てた向こう側の雑音など、小鳥のさえずりにもならない状態の加奈には、何の関係もない。
そんな時。
ドアが開く。
何気なく── そんな、人の眠りにやさしくない開け方。
でも、加奈は目を開けることはできなかった。
誰かが、この部屋に入ってきたのだと、頭の遠い部分が、本当に微かに認識しているだけだ。
「おい……カゼひくぞ」
ああ。
呼びかけられる声に、加奈はぼんやりと思った。
綺麗なバリトンだ、と。
低く、心に残る音。
それが高い位置から降ってくる。
しかし、彼女は眠り続けた。
起きられないのよ、ほっといてよ、疲れてんのよ。
そんな感じの意識だけが、唇の代わりにどこかで反響する。
とにかく、放っておいてほしかった。
確かに、12月の明け方は、とてもとても寒い。
誰かが切ってしまったのか、暖房もきいてなくて──── それでも、睡魔のほうが勝っていたのだ。
「しょうがねぇなぁ……」
ため息は、少し大きく。
声は、それでも掠れるほど低く。
そうして。
声は、前よりも床に近づいてきた。
彼女の方に。
「よっ……」
ふわり。
一瞬、重力を失った気がした。
眠っているので、ほとんどが闇ばかりだったから、まるでそれは宇宙のようだ。
無重力のそこ。
力強い腕が、自分の背中とひざの裏を支えてくれて。
何……?
正確に言うならば、「誰?」と問うべきだった。
しかし、いまの加奈の状態からすると、それだけでも思えたのが奇跡だった。
やっと背中に重力が戻ってきた。柔らかな感触つきだ。
その後、すこしそっけない毛布の匂いが降ってくる。
自分のためだけにあるのではない。
そんな匂い。
誰にでも優しいから、本当のところ誰も愛しすぎていない温もりが、いまの加奈を天国に連れていってしまった。
もう、何も分からない。
いましがた、自分が無重力体験をしたことすら。
ただ。
まだ、メジャーを腕に絡ませたまま、彼女は深海深く眠ってしまったのだった。
上半身で、側の椅子に寄りかかるようにして居眠りをしていたのだ。
頭は、三日ばかりの徹夜もどきのせいで、沼よりも深く淀んでいた。
服には糸くず布切れ、足の指先3センチの位置には、裁ちバサミが転がっている始末。
10秒歩けば仮眠室にたどり着けるというのに、それすらできないままだった。
「うー……」
自分が、いまひどいうなり声を上げたことにすら気づけずに、加奈は頭に当たる椅子の感触でさえ、気持ちいいと思いかけていた。
部屋の外を、人がせわしげに歩いていく。
声も聞こえる。
しかし、彼らにとってこの部屋はどうでもいいことのようで、誰もドアを開けようとはしなかった。
一枚隔てた向こう側の雑音など、小鳥のさえずりにもならない状態の加奈には、何の関係もない。
そんな時。
ドアが開く。
何気なく── そんな、人の眠りにやさしくない開け方。
でも、加奈は目を開けることはできなかった。
誰かが、この部屋に入ってきたのだと、頭の遠い部分が、本当に微かに認識しているだけだ。
「おい……カゼひくぞ」
ああ。
呼びかけられる声に、加奈はぼんやりと思った。
綺麗なバリトンだ、と。
低く、心に残る音。
それが高い位置から降ってくる。
しかし、彼女は眠り続けた。
起きられないのよ、ほっといてよ、疲れてんのよ。
そんな感じの意識だけが、唇の代わりにどこかで反響する。
とにかく、放っておいてほしかった。
確かに、12月の明け方は、とてもとても寒い。
誰かが切ってしまったのか、暖房もきいてなくて──── それでも、睡魔のほうが勝っていたのだ。
「しょうがねぇなぁ……」
ため息は、少し大きく。
声は、それでも掠れるほど低く。
そうして。
声は、前よりも床に近づいてきた。
彼女の方に。
「よっ……」
ふわり。
一瞬、重力を失った気がした。
眠っているので、ほとんどが闇ばかりだったから、まるでそれは宇宙のようだ。
無重力のそこ。
力強い腕が、自分の背中とひざの裏を支えてくれて。
何……?
正確に言うならば、「誰?」と問うべきだった。
しかし、いまの加奈の状態からすると、それだけでも思えたのが奇跡だった。
やっと背中に重力が戻ってきた。柔らかな感触つきだ。
その後、すこしそっけない毛布の匂いが降ってくる。
自分のためだけにあるのではない。
そんな匂い。
誰にでも優しいから、本当のところ誰も愛しすぎていない温もりが、いまの加奈を天国に連れていってしまった。
もう、何も分からない。
いましがた、自分が無重力体験をしたことすら。
ただ。
まだ、メジャーを腕に絡ませたまま、彼女は深海深く眠ってしまったのだった。