CROW
「こっちは終わったわよ」

 さすが、ベテラン。

 スタートダッシュは遅れたが、時間の帳尻合わせは完璧だ。

 仕上げとばかりに、香水をぶっぱなす洋子に、光一は顔をしかめていた。

 加奈は、じっと彼を見ている。

 熱い視線ではあるが、色気はない。

 たったひとつの穴も見逃さない、強い意志の目で、最終チェックをしているのだ。

 まだゴーサインを出さない娘を横目に、洋子は彼にまで香水を持ってきた。

 うげ。

「わりぃ、ヨーコさん。香水はカンベン…あれがいやがんだよ」

 両手で彼女に、ストップをかけると、一瞬洋子はきょとんとした。

「あれって? よく分からないけど、どうせ流して帰るんだから匂いなんて残んないわよ」

 あーあ。

 それ以上の抵抗は無意味だった。

 というより、抵抗するより先にパシュッと霧状の物が吹き付けられていたのだ。

「加奈! 出すわよ!」

 まだ、じっと見つめたままの加奈は、その声でやっと我に返った。

「うん、オッケ」

 振り返りざま、ようやく加奈の声が出た。

 洋子が出る。つづいて光一も。

 それに、義経も続こうとした──が、足を止める。

 振り返ると、怪訝そうな加奈の顔。

 にっと、笑ってやる。

「行ってくっぜ……見てろよ」

 不意打ちで腕を伸ばして、その頭を抱える。

 耳元で、囁く。

 唇はもう、耳たぶに触れんばかり。

「何っ!」

 突き飛ばされる気配を感じ、義経は飛びのいた。

 この服の作者への、最大限の敬意のつもりだったが、やっぱり彼女はそれをうまく受け流すことは出来ないようだ。

 そのまま身を翻して、義経は舞台に向かって走り出した。

 袖につくと、既に二人が待っている。

 出番間近、だ。

「…ヨーコさん」

「何?」

 洋子は、振り返る。

 そんな彼女に、義経はジャケットの襟を引っ張って見せた。

「こいつ、いつまでヨーコさんの服で出す気?」

 もう元のデザインは、どこにもない。

 何もかも、加奈が作った服だ。

 だから、聞いたのである。

 この服の行方を。

「あははははは」

 洋子は、堰を切ったように笑い始めた。

 光一がびっくりして、彼女の方を見てしまうくらいの勢いだ。

「ばっかねえ…義経くん」

 ジャケットの襟を、整えるように洋子は引っ張った。

「私は最初から、この服を自分の物だなんて公表する気はないのよ。そんなことは、取材に来てるプレスの連中はみんな知ってるわ…知らぬは、あの子とスタッフだけよ」

 その見事な答えに、義経は口笛で答えた。

 さすがは、年の功だ。

 手際のよさは大したものである。

 そして、次のファッション雑誌には、加奈の名前が出る寸法か。

 どうなることやら。

 素直ではない彼女のことを想像すると、笑いがこみ上げる。

 さぞや怒り狂うだろう、と。

「出番よ!」

 身のしまる声。

 義経は、首筋を緊張させると同時に、視線を感じて振り返っていた。

 加奈だ。

 頬が少し赤く感じるのは、さっきのあの行為のせいか。

 彼は、軽く笑みを浮かべながら歩き出した。


 出番だ。
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