CROW

5:加奈

 スーツが、手元に戻ってくる。

 家の作業場に座り込んだまま、ヒーターもつけずに加奈はそれを見ていた。

 ボディにきちんと着付けられたジャケットとシャツは、全然つまらないデザインに思える。

 少なくとも、今見る限りはそうだった。

 マネキンが着ているのを見て、ひきつけられる要素は感じられない。

 色は、既に今年のカラーではないし、形だって奇抜さや新鮮さがあるわけでもない。

 でも、あの時は一番似合う色と形だと思ったのだ。

「そうだよ、普通ならもっとこう…」

 マチ針を持ち出すや、加奈はジャケットのあちこちに補正を入れ始めた。

 布が別の表情を浮かべていく。

 もっと小粋に気障にしたければ、バランスを上の方にもってくればいい。

 むー。

 なのに、彼女は途中ですべての針を取り払った。

 たった1本の針でさえ、似合わなくなってしまうのだ。

 そう。

 彼に。

 羽村義経。

「何で……」

 出番前に、囁かれたことを思い出す。

 どうしてあんな真似をしたのか。

 彼にとっては、深い意味などないのかもしれない。

 義経のいる世界は、華やかで軽い。

 だから、こっちがきわどいと思っていることでも、当人たちにしてみれば、朝飯前のことだったりするのだ。

 軽い行動に、いちいち振り回されて悩む必要などないのである。

 加奈は、ばたんとひっくりかえった。

 床は冷たい。

 このまま眠りこんだ日には、間違いなく風邪への道のりをまっしぐらだろう。

 そんなことも気にせず、加奈は天井を見ていた。

「うちに、コレがあってもなあ」

 ぼそりと呟く。

 視線の端には、あのジャケット。

『あんたの服よ……返しとくわね』

 母親は、そう言った。

 言葉には、たくさんの含みが入っていたが、バイトの給料袋にも大した含みが入っていたため、その時は後者の方に興味が集中していたのだ。

 車を買うには足りないが、当初予定していたノルマは軽く超えている。

 だから、これでバイトも終了。

 あのわずらわしさから、解放されたのだ。

「あたしの服……ね」

 全然、その実感はわかなかった。

 服を目の前にしても、それに一番似合うモデルの顔ばかりがちらついて、まったく実感がわかないままなのだ。

「あたしの作った服……なんか、それ違う」

 むくり。

 床から起き上がると、仏頂面のままため息を吐き出した。

 服をボディからひきはがし、紙袋に詰める。

 彼女自身――コートに袖を通した。

 ※

「入るよ!」

 言葉の後に、ババアと追記しなかっただけマシな状態だった。

 加奈は、完全に頭にきていたのだ。

 それもこれも、『YOKO』のアトリエに入ってから、ここまでの道のりに起きた出来事のせいだった。

 最初に会ったのは、このあいだのショーで加奈が助手をしていたチーフ。

 人の顔見た途端、妙に腰が低くて『この間は、知らなかったとはいえごめんなさいね』などと言われたのだ。

 青ざめたのは、加奈だ。

 一体何事なのか。

 次に会ったのは、嫌いなタイプの別のチーフ。

 人を睨むようにじろじろ見て、挙句の果てにはフンと鼻で笑われた。

 よろけながらも謎がとけたのは、同じバイト仲間に会った時。

『加奈ちゃんって、デザインとかできたんだね。最後のスーツ、加奈ちゃんが作ったんでしょ?』

 蒸気機関車のカマの中に、たきぎが放り込まれた瞬間だった。

 プシュー!

 加奈の頭に、大量の血が跳ね上がったのだ。

「あら、加奈。どうしたの? バイト代に不満でもあったのかしら?」

 ドアの向こうには母親がいて、秘書のオッサンもいて。

 どちらも、ひどく穏やかな表情で自分を見ている。

「テメ…しゃべりやがったな!」

 昔とった杵柄の、反抗色最高のヤンキー言葉が炸裂する。

 どかどかと机に詰め寄り、ダンと拳でぶん殴って派手な音を立てた。

 母親は、少しびっくりした顔をしたが、すぐに眉をキリリと釣り上げて睨み返してくる。

「あんたねぇ…あたしを盗作デザイナーにする気? これが最初にあげたデザイン画よ! 全然違うものじゃない!」

 壁の本棚から、デザイン帳を抜き出すや、洋子はそれを机の上に叩き付けた。

 中途半端だった部分は、全て埋められている。

 布も糸も、縫い方の指示まで出してある。

「ちょ……こんなのあたしもらってねぇ! あー! ここも! ここも書き足して!」

 加奈は、キッと母親を見た。

 彼女は落ちかかる黒髪を、綺麗な指でかきあげて。

 そうして、少し怒ったように笑うのだ。

「あんたが作った服は、あたしのデザインじゃない。仕上がりを見た時点で、プレスには言っといたわ。アトリエの連中にバラさなかったのは、あんたの仕事がやりにくくなるからってだけよ」

 一瞬だが。

 一瞬、加奈は母親に目を奪われていた。

 十九年見続けてきた顔だ。見飽きているはずのに、その目の奥に自分を捕らえるような力があった。

「ああ、それから」

 まだ事態を把握できない加奈に、言葉を続けるのだ。

「存分に家の作業場を使っていいわよ……あたしは、またしばらくこっちにこもるから」

「なっ!」

 加奈は、話の流れを遮ろうとした。

 遮らなければならないと思った。

 母親は、自分の背中を押し出そうとしているのだ。

 デザインの道へ、と。

「あら、イヤなの?」

 しかし。

 なんと、不思議そうに洋子はそれを聞くのか。

 加奈の言葉を失わせるほどに、それは本当に不思議な声だった。
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