CROW

6:義経

「そーそー羽村くん」

 モデル仲間の光一の同居人が、台所からつまみをもってきながら呼びかけてくる。

 人の家に邪魔して、酒をかっくらうのは楽しい。

 まあ、ぶっちゃけ同じマンションの隣の部屋なのだ。

 わざわざ邪魔しにきているという気分は、あまりない。

「ん?」

 スルメを裂きながら、義経は顔を上げた。

 同居人という言葉は穏やかだが、まあ、簡単な言葉で言えば、光一の彼女である。

 同棲と言った方が、分かりやすいか。

 モデルの彼女にしては、ごくごく普通の子である。

『YOKO』の見習いお針子なのだが、かなり地味なので、まだこの同棲は職場にはバレていない。

 ある意味、大したものだ。

「あのバイトの子、すごい子だったんだってね」

 今日のアトリエは、それで持ちきりよ。

 その瞬間のびっくりを再現するみたいに、彼女は目を丸くしてみせた。

 光一はもともとリアクションの激しい人間ではないので、何も反応することなく、グラスの氷をガチャガチャ言わせている。

 居間に伸びる長い足が2セット。
 それを縫うように、彼女はつまみを配達してくれた。

「ん? 加奈のことか?」

 と、口にはするけれども、義経は本人を目の前にして『加奈』なんて呼んだことはなかった。

 いつも、『よぉ』とか『なぁ』とか―― これじゃまるで、繁華街でナンパしている男の第一声だ。

「あーうんうん、加奈ちゃん。アトリエの方に取材が来てたみたい。でも、あの子もうバイトやめちゃったでしょ? だから……これからどうなるんだろ」

 彼女は首を傾げる。

 やっぱり。

 ここまでは、洋子の思惑通りだ。

 問題は、これから。

 けれども、義経は知っている。

 加奈は、服を作るのだ、と。

 これからずっと。

 もうバイトではなくなるのだ。

 それはいいことで―― 義経もとても楽しみだった。

 ※

 彼女の作ったあの服は、自分にジャストフィットした。

 スーツを着ているなんて堅苦しさや重さは全然なかった。

 気持ちがいい。

 そう、気持ちいい服だった。

 あの唇を寄せた、耳元の産毛のように。

 思い出すと、義経は眉を上げてしまう。

 妙な感覚まで、あの服と一緒に胸の中まで遊びにくるからだ。

「心配いらねぇだろ? きっと加奈は、バイトやめても服作るだろうし……そしたら…」

 そしたら、オレは。

 もう。

 もう、彼女は聞いただろうか。

 自分が洋子の持ち出した、専属モデルの話を断ったのを。

 それとも、まだウダウダとごねているのだろうか。

 洋子の考え通りなら、いつか加奈は断った事実を知り、きっと怒るだろう。

 想像して、ちょっと笑ってしまった。

 義経は―― 専属モデルの申し出に不満があったわけじゃない。

『YOKO』の服は好きだが、加奈の服はもっと好きだった。

 だから、頷いてもよかったのだ。

 何の障害もなく、彼女の服を着たかった。

 けれど、義経は考えてしまったのだ。

「なあ……コウ」

 よっと、体の向きをかえ、仕事仲間の方を向き直る。

 だが、すでにこの部屋の主は眠そうにうつらうつらしていた。

 さっきまで、酒と戯れていたかと思うとこの騒ぎだ。

「……んー?」

 面倒臭そうに目をしばたいて。

「ああ、光一くん……もう酔ったの? 眠いの?」

 彼女に頬を撫でられると、光一は頭を左右に打ち振って意識を戻したようだ。

「コウ…てめぇのこれからの仕事、どうなってる?」

 安物ウィスキーをかっくらう、『YOKO』の専属モデルは、眠そうなまま義経を凝視した。

 少し怪訝そうだ。

「今月か? それとも……」

 そんな逆質問に、義経は首を横に振った。

「今年度いっぱい、だ」

 言葉に、光一は首を竦めた。

「似たようなもんだろ? でかいので、パリ行きが一本」
 
 彼は、新しいウィスキーを足して。

 それからもう一度、義経を見た。

 変なことを聞くな、と思ったのだろう。

 しかし、それをいちいち言葉にして聞いてこないところが彼なのだ。

「パリか…」

 年明けすぐのショーだ。

 この間みたいな、『YOKO』オンリーじゃなくて―― でなければ、加奈の服が飛び入りで参加できるはずがない――世界から集まってくる本格的なショーだ。

 もうファッションは、来年、再来年をみたがっている。

 そこでは、加奈のスーツを着ることは出来ない。

 残念な事実だ。

「義経くん?」

 呼ばれて、ああ? と顎を上げる。

 見ると、お針子の彼女がしょんぼりしていた。

 いつの間にか、また横になっている光一に膝枕をしながら。

「うちのパタンナーが言ってた。加奈ちゃんは恵まれすぎてるって…彼女は、全部母親に舞台を用意してもらうんじゃないかって…」

 多分、あのいやみったらしい上の方に、八つ当たりでもされたのだろう。

 平均より小さな体が、ますます小さくなっていく。

 義経は、ぽんとその頭に大きな手を置いた。

 慰めてやろうと思ったのだが、その手はすぐ真下から払われた。

 わざわざ起き上がって、光一が彼のちょっかいを拒否したのだ。

「触ンナ」

 自分の好きなものは、人も狙っていると思っているのだろうか。

 えらい濡れ衣だった。

「もう、光一くん、何いってんの」

 彼女は。そんな彼氏の鼻をぎゅうっとつまんで、「おバカさん」ときたものだ。

 聞いちゃいられない。

「誰も、取りゃしねぇよ」

 苦笑いしながら、義経はあーあと呟いた。

 自分が本当に取りたいのは――

 そう思って、更に苦笑する。

 何をオレは思ってるんだか、と。

 それでも、彼女の唇は、あの耳たぶの産毛のように柔らかいのだろうか、とか。

 あの瞳は、自分のために閉じてくれるだろうか、とか。

 そんな、ただれたことを考えている瞬間があるのだ。

 こりゃあ…マズイな。

 自覚があるくらいだから、怖いものだ。

「まいったな…」

 氷で薄くなったウィスキーは、妙に醒めた味がして、義経は舌を出しながらボトルを取り上げた。

 そんな時。

 ピンポーンと、来客を告げるベルが鳴る。

「あれ…誰だろ」

 お針子ちゃんが、立ち上がろうとしたが、光一が彼女の腰に手を回して行かせようとしない。

「もー光一くん…離して~」

 と、じたばたしているので。

「オレが出ようか?」

 義経は、グラスを置きかけた。

 それよりも早く、彼女は光一に勝利したようで立ち上がる。

 床には、ぶすったれたままの長い身体が転がっていた。

 時計を見ると、まだ八時前だ。

 来客があっても、そこまでおかしい時間ではない。

 そんな時間から、酒盛りをしている自分たちも自分たちだろうが。

 彼女が玄関に消える。

 義経は、床の男を見た。

「なあ……コウ」

 ボトルのふたを外しながら、義経は言葉を投げる。
 返答はなかったが、聞こえてはいるだろう。

「オレが、よそから引き抜かれたら…どうする?」

 言葉は、静かな床に反響した。

 光一は寝返りを打って、彼のほうをまっすぐに見た。

 いきなり何言ってやがんだ、という表情だ。

「別に…どうもしねぇ」

 気のない返事に、ニッと笑って返す。

 そうだろうな、と。

 この世界では、別に珍しいことじゃない。

 そう、珍しくもなんとも。

 納得させるみたいに、その言葉を何回か自分の中で噛み砕いた。

 そんな考えを、うまく整列させようとした時。

「義経くん…美春ちゃん来てるけど」

 えっと、義経は驚いた。

 一体何の用だ?

 怪訝に首を傾げながら、義経は玄関へ向かった。

 確かに、キッチンのテーブルの上に『隣にいる』と書置きは残しておいたが。

 玄関に顔を出すと、やはりこちらも、怪訝そうな顔をした美春が立っている。


 その表情は―― どうやら、今年のトレンドのようだった。
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