CROW

7:加奈

 何で、何で、何で――っ!!

 頭に来ていた。

 義経が、自分の専属になるということを拒んだ、と聞いたせいだ。

 じゃあ何故、彼はあんな態度を取ったのか。

『あの服が着たい』などと、どうして。

 脇に抱えたままの紙袋が、がさがさざわめいて。

 そこでようやく、加奈は気づいた。

 いま自分が、どこに立っているのか。

『YOKO』の専属モデルが住む、マンションの前だった。

 いつもなら怯むだろう。

 しかし、このときの加奈は怒髪天状態で。

 怖いものなんて、それこそ何もなかった。

 何故ノーというのか、それだけが知りたかったのだ。

 自分ひとりが、あの男に焦がれている。

 そう思うと、悔しくてしょうがなかった。

 彼は、自分の服には焦がれなかったのか。

 あのスーツは、義経を揺り動かさなかったのか。

 まずは、マンションの玄関のインターフォン。

 部屋の人に開けてもらわないと、この自動ロックは開かないはず――なのだが、どこの警備会社の責任か、ドアは開きっ放しだった。

 無用心にも故障しているようだ。

 加奈にとっては、幸運だった。

 これで、ドアの前まで邪魔されることはない。

 郵便受けで部屋を確認して、エレベーターに乗り込んだ。

 上昇を始めると、同時に耳鳴りがする。

 気づけば、ずいぶんと長い間、歯を食いしばったままだった。

『羽村』、と表札の出ているドアの前で、一呼吸。

 それから怒りに任せて、三度続けてベルを押す。

「はい…?」

 しかし、それに答えた声は――女のものだった。

 怪訝がちな、綺麗なメゾソプラノ。

 瞬間。

 加奈は、頭から冷水をかけられた気分に陥った。

 さっきまでの怒りはぶっとんで、突然、場違いな気持ちにさせられるのだ。

「あ…服を…羽村義経の、服を…」

 唇が、自分のものじゃないみたいだった。

「あ…『YOKO』の方ですか? ちょっと待ってくださいね」

 黒髪のストレートの、可愛い子だ。

 エプロンをつけて、濡れた手をしていた。

 色は抜けるほど白く、均整の取れた身体つき。

「いま隣に行ってるんですよ…御用なら、呼んできましょうか?」

 多分酒盛りよ、こんな時間から。

 悪態一つにも、愛情がこめられていた。

 その言葉の先にいるのは――義経。

 ピンクのメゾソプラノで、そう彼を形容するのだ。

 加奈の頭に、記憶がよみがえる。

 ショーのラスト。

 香水を吹き付けられようとする彼は、何といったか。

『あれがイヤがるから』

 ああ。

 ああ、そうだよな。

 彼女の一人や二人、いたっておかしくない。

 いや、いないほうがおかしい。

 加奈は、ぶんと首を左右に振った。

 でも何故、自分がそれに納得していないのか。

 頭が痛いくらいに、納得できないのか。

「いや…これ、渡しといて」

 彼女の胸に押し付けるように紙袋を渡すと、くるりと身を翻した。

 逃げなければ、いけない。

 身体が、そう言っている。

 胸がドクドクとわめいて、これ以上あのメゾソプラノを聞いたら、破裂するんじゃないかと思った。

「ちょ…」

 びっくりした後方の声は、エレベーターのドアでかき消され。

 四角い空間に、自分だけが残った。

 地上に向かう、冷たい感じに向かって。

「バッカ…ヤロ…」

 熱い吐息が、まだ耳に残っている気がする。

 指でぎゅっと、耳をおさえた。

 でももう、そこは、冷たいばかりだ。

 あれは気のせいだったのだと――身体までもが、自分を裏切った気がした。
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