CROW
8:義経
拉致成功。
ほうけている間に、車の後部座席に押し込んだのだ。
「あーあ…」
酒の入っていない光一の彼女が、運転席で呆れていた。
ヤツが、ついにつぶれて寝ていたからこそ、引っ張り出せたのだ。
「悪い悪い、今度なんかお礼すっから」
横に呆然地蔵を抱えたまま、義経は付き合わせた労をねぎらった。
「いいよ…あのまま義経くん、走ってでも行きそうだったし…光一くんお世話になってるし」
ため息をつきながら、またマンションへと送り戻してくれる。
あのトーヘンボクの彼女にしては、とてもよく出来ていた。
さて。
いまだ魂が抜けて、楽に引っ張りたい放題の加奈を、自分の部屋に連れ込もうとした時。
中から、美春が出てきた。
お約束の相手の登場に――腕の中の身体が、反射的にびくっとする。
さっき見た時のトラウマが残っているのだろうか。
「じゃ、あたし帰るから…全部掃除しといたよ。洗濯は明後日やるね…バイト代、その時にヨロシク~」
ショルダーバッグを肩にかけなおしながら、出て行こうとする。
兄の横にいる金髪の女に、ぺこりと頭を小さくさげて。
じゃあねーっ。
ぱたぱた左右に手を振って、美春はエレベータへと消えていった。
我が妹ながら、相変わらずイキがいい。
「変なところでバイトさせるより、オレのところだと安心だからな…ハハハ」
妹バカっぷりを炸裂させながら、にやけつつ加奈を見る。
自分には関係ないといいたげに、ぷいと顔がそらされる。
その耳たぶが、赤く染まっていて―― そそられる。
「別に…んなこと聞いてない」
大体、なんであたしがこんなところに。
と、余計な言葉を言って、正気に戻ろうとしたので、義経はさっさと彼女をドアの向こうに押し込んだのだった。
せっかくここまで来たのに、逃げられてはたまらない。
「コーヒーでいいか?」
さっきまで美春がいたので部屋は綺麗だし、暖房も効いているし、言うことなかった。
台所でマグカップを引っ張り出している家主をヨソに、加奈はぶすくれたまま辺りを見回している。
ガー、ギャッ、ガーガーッ。
野太い声で、彼女を歓迎しているものがいる。
どうやら、それに目を奪われているようだ。
ガシャン、ガシャンと吊るしてある金属の鳥かごがわめく。
「コラ、九郎…騒ぐんじゃねぇ」
マグを両手に一つずつ持って、ダイニングの方へ出る。
加奈は、珍しそうに鳥を見ていた。
今ばかりは、さっきまでの可愛くない言葉も忘れているようだ。
「てめぇは、美春にエサをもらったろうが…」
加奈の隣に立って、ほいとマグを渡す。
銀の格子の向こうで、黒い鳥があっちにへばりつき、こっちに飛び移り、と忙しかった。
九官鳥だ。
彼女は不可解な顔になりながら、ようやくマグを受け取った。
「あん? 砂糖かなんかいるなら、向こうだぜ」
カップの中を覗き込んでいる加奈に、気の利かないことを言うと、途端にムッとした表情が返ってくる。
「いらない」
そして、そのまま唇をつけるのだ。
義経は、横顔をじっと見ていた。
熱そうに、ちょっとだけ舌が見え隠れ―― まいったな。
自分のマグはほったらかしたまま天井を見て、それからまだ騒いでいる九郎を見た。
彼女を見ていると、ちょっと妙な気分になってしまいそうだったからだ。
しかし、いつになく九郎が騒ぎをやめない。
珍しい人が来ただけにしては、ちょっと騒ぎすぎである。
「あ、そうか…」
理由に気づいて、義経は彼女を振り返った。
「香水かなんか…つけてっか?」
くん、と鼻を鳴らす。
確かに、ほんの少しだけ匂う気がする。
本人がつけているというよりは――
「イヤ、別に…あ、今日、アトリエに寄ったから」
コーヒーで鼻がバカになっているのだろうか。
加奈は、自分の袖口の匂いをかぎながら、首を傾げる。
あの香水大好き洋子の、移り香のようだ。
「なーるほど、ね…それに反応してうるさいんだな…このバカ鳥」
指を、格子の隙間に入れると、黄色いクチバシで必死にカジカジと噛み付いてくる。
そうやって遊んでやりながら、加奈の方を振り返る。
びっくりした顔があった。
「香水嫌いって…九官鳥のことかよ!」
突然加奈がバカバカしそうに笑い出したので、義経は逆に驚いてしまう。
とりあえず。
コーヒーは冷めかけ、ちょうどいい温度になってきたようだ。
ずっ。
彼女の大笑いを肴に、義経はマグに口をつけた。
「こいつ…」
義経は、美春が部屋に吊るしていてくれた、あの服をハンガーごと持ってきた。
彼女がようやく、九郎から離れたソファに座ってくれ―― そっけない目で、それを見上げている。
「ああ、それ? あんたにやる」
加奈は、行儀悪く片ひざを立てて、そのてっぺんにマグを置く。
あたしが持っててもしょうがないから、と付け足すのだ。
「ホントは、ここまで怒鳴り込みにきたんだぜ…断ったろ? 母さんに、さ」
最後の一滴まで、マグの中身を空っぽにしてテーブルに戻すと、もう話が終わったみたいに立ち上がる。
「でもまあ…よくよく考えたら、怒鳴る権利はなかった。あんたがノーって言った理由は、分かるよ」
自己完結な物言いに、義経は驚いた。
ちょっと待て!
彼がノーと言った理由を、本当に分かっているのだろうか。
出て行こうとする身体を、腕を回して引き止める。
彼女の作った服も持ったままだったので、布越しに抱きしめているような感じだ。
それなのに、こんな時に限って言葉が出てきやしない。
とりあえず、止まってくれてほっとする。
「でも、これは分かんない…なんであたしを追っかけてきたり、家に連れてきたり…こんな風に引き止めたり。全然、分かんないぜ」
睨みたいのか、戸惑いたいのか――テンションが上がったり下がったりする瞳が、向けられたり、そらされたり。
言葉が止まる。
そんな彼女を、じっと見て。
それから、きちんと彼女の背中に腕を回し直して。
抱きしめる。
「人の話…聞いてんのかよ」
しかし、金髪の姫君には、お気に召さなかったようだ。
ギロリ、と睨みあげられる。
さすがは、ヤンキー上がりと言うだけのことはある。
ぽんぽん、と彼女の背中をなだめるようにたたいて。
「加奈…」
そして、名前で呼んでみた。
「勝手に呼ぶな」
もがこうとする身体を、腕に力を込めて止める。
本当の自分の気持ちなんて、とっくに気づいている。
なんでこの元ヤンキーに、こんなに沢山のことを考えさせられたか。
「加奈は可愛いなあ…好きだぞ」
素直にそう言ってみた。
瞬間―― 抱いている体が硬直する。
年を食ってよかったと思うことは、素直な言葉も案外悪くない、と気づいたことだった。
ヤンキー時代には、彼もそれはみっともないと思っていたのだから。
九郎が、ガーガーとわめきたてる。
その音の中。
「こ……」
胸の中で、くぐもった声がした。
何を言おうとしているのか、よく聞こうと耳をすました――刹那。
「この…ゲス野郎!」
見事にミゾオチに決まった正拳突き。
ぐほっ。
さすがの一撃に、義経も腕から力が抜けてしまった。
その隙を、彼女は見逃さない。
バタバタバタッ、ガシャン!
服と彼だけが、そこに取り残され――エレベータも使わずに、階段を駆け下りていく足音は、すぐに聞こえなくなった。
「ハッ…逃げられた」
義経は、どさっと床に大の字に転がった。
「九郎、見てたか? 逃げられたぞ…いてて…やるなぁ」
笑うと、ミゾオチが痛い。
追いかけられないほど、そこが痛むわけではない。
ただ、追いかけなかった。
真っ赤になった彼女の耳たぶのせいだ。
あの耳たぶだけが、自分の好意をつっぱねていなかった。
しゃべらない九官鳥は、ギャギャッとわめくだけで、いまの無様な主人を笑っているようだ。
「ゲス…ねぇ」
思い出すと、顔がにやける。
耳たぶじゃなくて、加奈の唇を陥落させたかった。
だが、きっとキスなんかしたら、ミゾオチじゃなくて顔面張られていただろう。
想像すると、なお笑える。
まだまだ、彼女は子供なのだ。
だから、慌てて急いで壊すわけにはいかない。
デザイナーとしての腕も、自分の好きな彼女個人も。
本当は、もうちょっと言わないでおくつもりだった。
気づかないふりも、しておくつもりだったのだ。
抑えがきかなかったあたり、まだまだ自分も青かった。
けれど、追いかけなかったのは、今だけだ。
大丈夫。
世界は彼のために、明日も明後日もその次も、ちゃんと用意してくれているのだから。
義経は、目を閉じた。
「張り切って逃げろよー」
追い回すから。
全然何もこりていない男は、腹いせに加奈の作った服にキスをしたのだった。
ほうけている間に、車の後部座席に押し込んだのだ。
「あーあ…」
酒の入っていない光一の彼女が、運転席で呆れていた。
ヤツが、ついにつぶれて寝ていたからこそ、引っ張り出せたのだ。
「悪い悪い、今度なんかお礼すっから」
横に呆然地蔵を抱えたまま、義経は付き合わせた労をねぎらった。
「いいよ…あのまま義経くん、走ってでも行きそうだったし…光一くんお世話になってるし」
ため息をつきながら、またマンションへと送り戻してくれる。
あのトーヘンボクの彼女にしては、とてもよく出来ていた。
さて。
いまだ魂が抜けて、楽に引っ張りたい放題の加奈を、自分の部屋に連れ込もうとした時。
中から、美春が出てきた。
お約束の相手の登場に――腕の中の身体が、反射的にびくっとする。
さっき見た時のトラウマが残っているのだろうか。
「じゃ、あたし帰るから…全部掃除しといたよ。洗濯は明後日やるね…バイト代、その時にヨロシク~」
ショルダーバッグを肩にかけなおしながら、出て行こうとする。
兄の横にいる金髪の女に、ぺこりと頭を小さくさげて。
じゃあねーっ。
ぱたぱた左右に手を振って、美春はエレベータへと消えていった。
我が妹ながら、相変わらずイキがいい。
「変なところでバイトさせるより、オレのところだと安心だからな…ハハハ」
妹バカっぷりを炸裂させながら、にやけつつ加奈を見る。
自分には関係ないといいたげに、ぷいと顔がそらされる。
その耳たぶが、赤く染まっていて―― そそられる。
「別に…んなこと聞いてない」
大体、なんであたしがこんなところに。
と、余計な言葉を言って、正気に戻ろうとしたので、義経はさっさと彼女をドアの向こうに押し込んだのだった。
せっかくここまで来たのに、逃げられてはたまらない。
「コーヒーでいいか?」
さっきまで美春がいたので部屋は綺麗だし、暖房も効いているし、言うことなかった。
台所でマグカップを引っ張り出している家主をヨソに、加奈はぶすくれたまま辺りを見回している。
ガー、ギャッ、ガーガーッ。
野太い声で、彼女を歓迎しているものがいる。
どうやら、それに目を奪われているようだ。
ガシャン、ガシャンと吊るしてある金属の鳥かごがわめく。
「コラ、九郎…騒ぐんじゃねぇ」
マグを両手に一つずつ持って、ダイニングの方へ出る。
加奈は、珍しそうに鳥を見ていた。
今ばかりは、さっきまでの可愛くない言葉も忘れているようだ。
「てめぇは、美春にエサをもらったろうが…」
加奈の隣に立って、ほいとマグを渡す。
銀の格子の向こうで、黒い鳥があっちにへばりつき、こっちに飛び移り、と忙しかった。
九官鳥だ。
彼女は不可解な顔になりながら、ようやくマグを受け取った。
「あん? 砂糖かなんかいるなら、向こうだぜ」
カップの中を覗き込んでいる加奈に、気の利かないことを言うと、途端にムッとした表情が返ってくる。
「いらない」
そして、そのまま唇をつけるのだ。
義経は、横顔をじっと見ていた。
熱そうに、ちょっとだけ舌が見え隠れ―― まいったな。
自分のマグはほったらかしたまま天井を見て、それからまだ騒いでいる九郎を見た。
彼女を見ていると、ちょっと妙な気分になってしまいそうだったからだ。
しかし、いつになく九郎が騒ぎをやめない。
珍しい人が来ただけにしては、ちょっと騒ぎすぎである。
「あ、そうか…」
理由に気づいて、義経は彼女を振り返った。
「香水かなんか…つけてっか?」
くん、と鼻を鳴らす。
確かに、ほんの少しだけ匂う気がする。
本人がつけているというよりは――
「イヤ、別に…あ、今日、アトリエに寄ったから」
コーヒーで鼻がバカになっているのだろうか。
加奈は、自分の袖口の匂いをかぎながら、首を傾げる。
あの香水大好き洋子の、移り香のようだ。
「なーるほど、ね…それに反応してうるさいんだな…このバカ鳥」
指を、格子の隙間に入れると、黄色いクチバシで必死にカジカジと噛み付いてくる。
そうやって遊んでやりながら、加奈の方を振り返る。
びっくりした顔があった。
「香水嫌いって…九官鳥のことかよ!」
突然加奈がバカバカしそうに笑い出したので、義経は逆に驚いてしまう。
とりあえず。
コーヒーは冷めかけ、ちょうどいい温度になってきたようだ。
ずっ。
彼女の大笑いを肴に、義経はマグに口をつけた。
「こいつ…」
義経は、美春が部屋に吊るしていてくれた、あの服をハンガーごと持ってきた。
彼女がようやく、九郎から離れたソファに座ってくれ―― そっけない目で、それを見上げている。
「ああ、それ? あんたにやる」
加奈は、行儀悪く片ひざを立てて、そのてっぺんにマグを置く。
あたしが持っててもしょうがないから、と付け足すのだ。
「ホントは、ここまで怒鳴り込みにきたんだぜ…断ったろ? 母さんに、さ」
最後の一滴まで、マグの中身を空っぽにしてテーブルに戻すと、もう話が終わったみたいに立ち上がる。
「でもまあ…よくよく考えたら、怒鳴る権利はなかった。あんたがノーって言った理由は、分かるよ」
自己完結な物言いに、義経は驚いた。
ちょっと待て!
彼がノーと言った理由を、本当に分かっているのだろうか。
出て行こうとする身体を、腕を回して引き止める。
彼女の作った服も持ったままだったので、布越しに抱きしめているような感じだ。
それなのに、こんな時に限って言葉が出てきやしない。
とりあえず、止まってくれてほっとする。
「でも、これは分かんない…なんであたしを追っかけてきたり、家に連れてきたり…こんな風に引き止めたり。全然、分かんないぜ」
睨みたいのか、戸惑いたいのか――テンションが上がったり下がったりする瞳が、向けられたり、そらされたり。
言葉が止まる。
そんな彼女を、じっと見て。
それから、きちんと彼女の背中に腕を回し直して。
抱きしめる。
「人の話…聞いてんのかよ」
しかし、金髪の姫君には、お気に召さなかったようだ。
ギロリ、と睨みあげられる。
さすがは、ヤンキー上がりと言うだけのことはある。
ぽんぽん、と彼女の背中をなだめるようにたたいて。
「加奈…」
そして、名前で呼んでみた。
「勝手に呼ぶな」
もがこうとする身体を、腕に力を込めて止める。
本当の自分の気持ちなんて、とっくに気づいている。
なんでこの元ヤンキーに、こんなに沢山のことを考えさせられたか。
「加奈は可愛いなあ…好きだぞ」
素直にそう言ってみた。
瞬間―― 抱いている体が硬直する。
年を食ってよかったと思うことは、素直な言葉も案外悪くない、と気づいたことだった。
ヤンキー時代には、彼もそれはみっともないと思っていたのだから。
九郎が、ガーガーとわめきたてる。
その音の中。
「こ……」
胸の中で、くぐもった声がした。
何を言おうとしているのか、よく聞こうと耳をすました――刹那。
「この…ゲス野郎!」
見事にミゾオチに決まった正拳突き。
ぐほっ。
さすがの一撃に、義経も腕から力が抜けてしまった。
その隙を、彼女は見逃さない。
バタバタバタッ、ガシャン!
服と彼だけが、そこに取り残され――エレベータも使わずに、階段を駆け下りていく足音は、すぐに聞こえなくなった。
「ハッ…逃げられた」
義経は、どさっと床に大の字に転がった。
「九郎、見てたか? 逃げられたぞ…いてて…やるなぁ」
笑うと、ミゾオチが痛い。
追いかけられないほど、そこが痛むわけではない。
ただ、追いかけなかった。
真っ赤になった彼女の耳たぶのせいだ。
あの耳たぶだけが、自分の好意をつっぱねていなかった。
しゃべらない九官鳥は、ギャギャッとわめくだけで、いまの無様な主人を笑っているようだ。
「ゲス…ねぇ」
思い出すと、顔がにやける。
耳たぶじゃなくて、加奈の唇を陥落させたかった。
だが、きっとキスなんかしたら、ミゾオチじゃなくて顔面張られていただろう。
想像すると、なお笑える。
まだまだ、彼女は子供なのだ。
だから、慌てて急いで壊すわけにはいかない。
デザイナーとしての腕も、自分の好きな彼女個人も。
本当は、もうちょっと言わないでおくつもりだった。
気づかないふりも、しておくつもりだったのだ。
抑えがきかなかったあたり、まだまだ自分も青かった。
けれど、追いかけなかったのは、今だけだ。
大丈夫。
世界は彼のために、明日も明後日もその次も、ちゃんと用意してくれているのだから。
義経は、目を閉じた。
「張り切って逃げろよー」
追い回すから。
全然何もこりていない男は、腹いせに加奈の作った服にキスをしたのだった。