CROW
9:加奈
年が――明ける。
しかし、それは加奈にとっては、大した問題じゃない。
自宅の作業場に、こもりっきりのせいだ。
母親はパリ行きで忙しく、顔を合わせる暇もない。
加奈は、と言えば。
結局、トヨタにもニッサンにも、はたまた中古車センターにも行かなかった。
行かずに、バイト代はすべて、布やその他の裁縫用品につぎ込んだのだ。
それから、ずっとミシンを走らせたり、デザイン帳に殴り書きしたり。
漁るように読んだファッション誌や、服飾業界誌は、もう彼女の知っている世界ではなかった。
高校三年の間に、大きく様変わりしていたのである。
その三年分のブランクを埋めるために、新しい素材や技を盗まなければならなかった。
「まだ、起きてるの?」
ふわぁ。
洋子が、あくびをしながらドアを開ける。
ギロリと母親を睨みながら、デザイン帳を閉じた。
「ああ、悪かったわね、デザインしてたのね。大丈夫よ、盗みゃしないわ」
あはは、と愉快そうに笑われる。
盗まれる心配をしているのではない。
覗かれて、いろいろ言われるのがいやなだけだ。
「朝にはパリに飛ぶから、おみやげは何がいいか聞こうと思っただけよ」
彼女は、ニヤニヤしながら娘を覗き込む。
その白い肌に、マチ針をつきたててやりたくなる衝動を、ぐっとこらえなければならなかった。
「ふざけんな、毎年行ってて何を今更みやげだ」
母親がいるから、別の作業をしようと思い、加奈は膝で立った。
それからボディに着せた仮縫いの服を、チャカチャカと補正していく。
女物だ。
ミニのジャンパースカートを仕上げる娘を、珍しそうに見下ろしてくる。
「エルメス? シャネル? 何がいいのかなぁ、うちの娘は」
デザイナーとは思えない貧弱なセンスのギャグに、加奈はキッと振り返った。
次はこう言うのか。
『バッグ、スカーフ、香水』と。
それでは、バブル時代のヨーロッパ買い物ツアーのお品書きではないか。
「ベルサイユ宮殿がいいな、あたし」
精一杯の皮肉で見上げると、母親はにっこり微笑んだ。
「可愛い娘ねぇ、ほんとに」
微笑みながら、加奈の頬を両側にむにーっと伸ばそうとする。
大きく伸ばされる前に、慌てて彼女は母の手を叩き落した。
「しっかし、義経くんにフラれて、あんた宗旨替えしたの? 女物の、しかもティーンじゃない」
頬を押さえている加奈を横目に、彼女はふぅんとボディの着ている服――あるいは、周囲にとっちらかっている、出来立ての服を見ながら呟いた。
洋子の言うとおり、女物ばかりだ。
それは、契約商品だった。
ファッションビルの、セミ・ブランドの店に入れる服だ。
売れた分だけ、報酬が手元に入るという寸法だった。
母親の関係ではなく、自力で探してきた仕事である。
「別に…関係ないでしょ」
誰が、誰にフラレたって?
ふん、と加奈は手首のマチ針を一本くわえて、彼を思い出さないように作業を続けた。
あの件以来、奴とは会っていない。
加奈はもう、誰のインターフォンも無視した。
電話は携帯があるので、必要な人にだけ番号を教えてある。
だから、家の電話にも出なくなった。
あの手の早いスケベ男に、振り回されるのはもうまっぴらだ。
なーにが『可愛い』だ、『好きだ』だだだだだ!
加奈は、太鼓をたたくような勢いで、それらの事実を踏みつけにしようとした。
人を、ぬいぐるみかなんかと勘違いしてるだろうと、突っ込みたい気分でいっぱいだ。
あの抱擁も言葉も、図体と相反してなんと軽いのか。
バカにされているとしか思えない。
そんな男も、明日――いやもう今日の朝には、『YOKO』の専属モデルとして、パリへ行くのだ。
母親の両脇を、光一と二人で固めて異国の地に立つ。
その写真が、ファッション誌を飾っているのが、容易に想像できた。
「じゃあ、あたしは寝るけど…腕の安売りだけはしないようにね」
大きなあくびをしながら、洋子は作業場を出て行く。
ぱたんとドアが閉められ、ようやく安堵の吐息を落とすことが出来た。
「安売り…ね」
マチ針をボディに突き立てて、うーっとうなる。
安売りする腕もないのだ、自分には。
加奈は、じっとボディの着ている服を見た。
普通の服だ――デザインとかの話ではない。
そういう意味ではなく、普通に人間の着られる服だ。
当たり前のことだが、実は当たり前の手順を踏んで作られてはいない。
服を作る時において、型紙を作る前にやらなければならない、トワールという作業をぶっとばしているのだ。
最初は、別布で立体裁断をする必要がある。
採寸に補正したボディを使って。
布をボディに合わせていき、仮の服の形を作るのだ。
その布を元に、次に型紙を作るのである。
その作業が――トワールだ。
作業を飛ばすようになったのは、母親のせいだ。
彼女も自分一人でやる時は、トワールをすっとばす。
そのやり方で、加奈も覚えてしまった。
ただし、人の身体の勉強だけは、いやというほど叩き込まれた。
それはもう、ほとんど人体解剖学の世界だ。
母親はいい。
もう大物なのだから。
たとえトワールをおこさなくても、逆に人をうならせるだろう。
しかし、若造扱いされる自分では、ちゃんとした手順も踏めない生意気なヤツ、になるのだ。
きちんと勉強をしてこの業界に入った人間は、何かにつけて彼女を疎外するだろう。
勝手に言ってろ。
見えない敵に、加奈は舌を出した。
再び、デザイン帳を開こうとした。
2冊ある。
赤いのと、青いの。
彼女は、青いデザイン帳を取ってめくった。
たくさんの少女たちの服だ。
いま契約している店に、相応しいデザインである。
まだ寒いが、そこには春物の暖かいピンクやオレンジがあふれ出していた。
それが、誰かのイメージにかぶっていることに気づいて、加奈は愉快な気分になる。
なるほど、と。
赤鉛筆をもって、デザイン画の端に『メゾ・ソプラノ』と殴り書いた。
赤いデザイン帳は、開く前に一瞬ためらう。
自分で描いたものを、どうしてためらわなければならないのかと、気合を入れて開いた。
「あー…」
情けない声が出てしまう。
男物のデザインだ。
しかも、どうしても誰かばかりを想像させて――加奈を悔しがらせる。
なんで、描いてしまうんだろう。
もう、あの男は決して手に入らないというのに。
この服を、誰か違う人間が着ることになるのだろうか。
加奈は、考えないふりをしながら、デザイン帳を閉じた。
※
白い息を吐きながら、完徹の加奈は、新聞を取りに表に出た。
ついいましがた、母親が空港に出発したところ。
家の前に車が止まった時には、何か忘れ物でもしたのかと思っていた。
だから、後部座席から人が降りたのにも大して関心を寄せず、新聞受けに首をつっこんでいたのだ。
「加奈」
それが、低い声で自分を呼び捨てにするものだから、とっさに後方にとびのいてしまう。
じょ、冗談だろ?
自分の耳を疑いたい思いにかられながら、おそるおそる声の方を見ると。
でたーー!!
お化け以上の扱いを受ける男が、そこには立っていた。
羽村義経だ。
一ヶ月近く会わなかったのに、親しげに笑顔を浮かべている。
いや、そんなに親しくないだろ。
徹夜の微妙なテンションで、加奈は一人でつっこんでいた。
「頼みがある」
しかし、相手はまったく彼女の態度など頓着せず、自分の言いたいことを言い始めるではないか。
パリに行く日の朝に、一体なんの頼みがあるというのか。
あんぐり口を開けたまま、何も言えずにいる加奈に。
義経は、手にさげている箱っぽいものの布を取り払った。
出てきたのは――銀の鳥かご。
黒い鳥が、やっと明るくなった周囲を、きょろきょろと眺めている。
「半月ほど、こいつを預かって欲しい」
そこまで言われて、やっと加奈は反応できた。
「何勝手なこと言ってんだよ…いやに決まってるだろ!? 妹に頼めよ」
図々しいと言う以前に、ありえない話だ。
生き物を、ほとんど付き合いのない人間に預けるなんて。
「妹、里帰りしちまってね」
頼む。
義経は、すばやく加奈の手を取ると、かごを握らせた。
えっと思った時には、自分の手の中だ。
放すわけにはいかない――中には鳥がいるのだから。
「ちょ……!」
反論しようとした唇を、義経に指でおさえられる。
固く、乾いた指先。
「頼む…」
反則ものの、低い声。
ぞわっと、寒さとは別の鳥肌が立つ。
「帰ってきたら、何でも言うこと聞いてやるよ」
頭をくしゃっとされ――はっと気づいた時には。
「ちょ、待て! こら!」
もう義経は、笑いながら後部座席のドアに消えるところだった。
加奈は鳥と二人きり、庭先に取り残されたのである。
ガーガッツ、ギャギャ。
けたたましく鳴く鳥の声で、加奈は現実を再認識させられたのだった。
しかし、それは加奈にとっては、大した問題じゃない。
自宅の作業場に、こもりっきりのせいだ。
母親はパリ行きで忙しく、顔を合わせる暇もない。
加奈は、と言えば。
結局、トヨタにもニッサンにも、はたまた中古車センターにも行かなかった。
行かずに、バイト代はすべて、布やその他の裁縫用品につぎ込んだのだ。
それから、ずっとミシンを走らせたり、デザイン帳に殴り書きしたり。
漁るように読んだファッション誌や、服飾業界誌は、もう彼女の知っている世界ではなかった。
高校三年の間に、大きく様変わりしていたのである。
その三年分のブランクを埋めるために、新しい素材や技を盗まなければならなかった。
「まだ、起きてるの?」
ふわぁ。
洋子が、あくびをしながらドアを開ける。
ギロリと母親を睨みながら、デザイン帳を閉じた。
「ああ、悪かったわね、デザインしてたのね。大丈夫よ、盗みゃしないわ」
あはは、と愉快そうに笑われる。
盗まれる心配をしているのではない。
覗かれて、いろいろ言われるのがいやなだけだ。
「朝にはパリに飛ぶから、おみやげは何がいいか聞こうと思っただけよ」
彼女は、ニヤニヤしながら娘を覗き込む。
その白い肌に、マチ針をつきたててやりたくなる衝動を、ぐっとこらえなければならなかった。
「ふざけんな、毎年行ってて何を今更みやげだ」
母親がいるから、別の作業をしようと思い、加奈は膝で立った。
それからボディに着せた仮縫いの服を、チャカチャカと補正していく。
女物だ。
ミニのジャンパースカートを仕上げる娘を、珍しそうに見下ろしてくる。
「エルメス? シャネル? 何がいいのかなぁ、うちの娘は」
デザイナーとは思えない貧弱なセンスのギャグに、加奈はキッと振り返った。
次はこう言うのか。
『バッグ、スカーフ、香水』と。
それでは、バブル時代のヨーロッパ買い物ツアーのお品書きではないか。
「ベルサイユ宮殿がいいな、あたし」
精一杯の皮肉で見上げると、母親はにっこり微笑んだ。
「可愛い娘ねぇ、ほんとに」
微笑みながら、加奈の頬を両側にむにーっと伸ばそうとする。
大きく伸ばされる前に、慌てて彼女は母の手を叩き落した。
「しっかし、義経くんにフラれて、あんた宗旨替えしたの? 女物の、しかもティーンじゃない」
頬を押さえている加奈を横目に、彼女はふぅんとボディの着ている服――あるいは、周囲にとっちらかっている、出来立ての服を見ながら呟いた。
洋子の言うとおり、女物ばかりだ。
それは、契約商品だった。
ファッションビルの、セミ・ブランドの店に入れる服だ。
売れた分だけ、報酬が手元に入るという寸法だった。
母親の関係ではなく、自力で探してきた仕事である。
「別に…関係ないでしょ」
誰が、誰にフラレたって?
ふん、と加奈は手首のマチ針を一本くわえて、彼を思い出さないように作業を続けた。
あの件以来、奴とは会っていない。
加奈はもう、誰のインターフォンも無視した。
電話は携帯があるので、必要な人にだけ番号を教えてある。
だから、家の電話にも出なくなった。
あの手の早いスケベ男に、振り回されるのはもうまっぴらだ。
なーにが『可愛い』だ、『好きだ』だだだだだ!
加奈は、太鼓をたたくような勢いで、それらの事実を踏みつけにしようとした。
人を、ぬいぐるみかなんかと勘違いしてるだろうと、突っ込みたい気分でいっぱいだ。
あの抱擁も言葉も、図体と相反してなんと軽いのか。
バカにされているとしか思えない。
そんな男も、明日――いやもう今日の朝には、『YOKO』の専属モデルとして、パリへ行くのだ。
母親の両脇を、光一と二人で固めて異国の地に立つ。
その写真が、ファッション誌を飾っているのが、容易に想像できた。
「じゃあ、あたしは寝るけど…腕の安売りだけはしないようにね」
大きなあくびをしながら、洋子は作業場を出て行く。
ぱたんとドアが閉められ、ようやく安堵の吐息を落とすことが出来た。
「安売り…ね」
マチ針をボディに突き立てて、うーっとうなる。
安売りする腕もないのだ、自分には。
加奈は、じっとボディの着ている服を見た。
普通の服だ――デザインとかの話ではない。
そういう意味ではなく、普通に人間の着られる服だ。
当たり前のことだが、実は当たり前の手順を踏んで作られてはいない。
服を作る時において、型紙を作る前にやらなければならない、トワールという作業をぶっとばしているのだ。
最初は、別布で立体裁断をする必要がある。
採寸に補正したボディを使って。
布をボディに合わせていき、仮の服の形を作るのだ。
その布を元に、次に型紙を作るのである。
その作業が――トワールだ。
作業を飛ばすようになったのは、母親のせいだ。
彼女も自分一人でやる時は、トワールをすっとばす。
そのやり方で、加奈も覚えてしまった。
ただし、人の身体の勉強だけは、いやというほど叩き込まれた。
それはもう、ほとんど人体解剖学の世界だ。
母親はいい。
もう大物なのだから。
たとえトワールをおこさなくても、逆に人をうならせるだろう。
しかし、若造扱いされる自分では、ちゃんとした手順も踏めない生意気なヤツ、になるのだ。
きちんと勉強をしてこの業界に入った人間は、何かにつけて彼女を疎外するだろう。
勝手に言ってろ。
見えない敵に、加奈は舌を出した。
再び、デザイン帳を開こうとした。
2冊ある。
赤いのと、青いの。
彼女は、青いデザイン帳を取ってめくった。
たくさんの少女たちの服だ。
いま契約している店に、相応しいデザインである。
まだ寒いが、そこには春物の暖かいピンクやオレンジがあふれ出していた。
それが、誰かのイメージにかぶっていることに気づいて、加奈は愉快な気分になる。
なるほど、と。
赤鉛筆をもって、デザイン画の端に『メゾ・ソプラノ』と殴り書いた。
赤いデザイン帳は、開く前に一瞬ためらう。
自分で描いたものを、どうしてためらわなければならないのかと、気合を入れて開いた。
「あー…」
情けない声が出てしまう。
男物のデザインだ。
しかも、どうしても誰かばかりを想像させて――加奈を悔しがらせる。
なんで、描いてしまうんだろう。
もう、あの男は決して手に入らないというのに。
この服を、誰か違う人間が着ることになるのだろうか。
加奈は、考えないふりをしながら、デザイン帳を閉じた。
※
白い息を吐きながら、完徹の加奈は、新聞を取りに表に出た。
ついいましがた、母親が空港に出発したところ。
家の前に車が止まった時には、何か忘れ物でもしたのかと思っていた。
だから、後部座席から人が降りたのにも大して関心を寄せず、新聞受けに首をつっこんでいたのだ。
「加奈」
それが、低い声で自分を呼び捨てにするものだから、とっさに後方にとびのいてしまう。
じょ、冗談だろ?
自分の耳を疑いたい思いにかられながら、おそるおそる声の方を見ると。
でたーー!!
お化け以上の扱いを受ける男が、そこには立っていた。
羽村義経だ。
一ヶ月近く会わなかったのに、親しげに笑顔を浮かべている。
いや、そんなに親しくないだろ。
徹夜の微妙なテンションで、加奈は一人でつっこんでいた。
「頼みがある」
しかし、相手はまったく彼女の態度など頓着せず、自分の言いたいことを言い始めるではないか。
パリに行く日の朝に、一体なんの頼みがあるというのか。
あんぐり口を開けたまま、何も言えずにいる加奈に。
義経は、手にさげている箱っぽいものの布を取り払った。
出てきたのは――銀の鳥かご。
黒い鳥が、やっと明るくなった周囲を、きょろきょろと眺めている。
「半月ほど、こいつを預かって欲しい」
そこまで言われて、やっと加奈は反応できた。
「何勝手なこと言ってんだよ…いやに決まってるだろ!? 妹に頼めよ」
図々しいと言う以前に、ありえない話だ。
生き物を、ほとんど付き合いのない人間に預けるなんて。
「妹、里帰りしちまってね」
頼む。
義経は、すばやく加奈の手を取ると、かごを握らせた。
えっと思った時には、自分の手の中だ。
放すわけにはいかない――中には鳥がいるのだから。
「ちょ……!」
反論しようとした唇を、義経に指でおさえられる。
固く、乾いた指先。
「頼む…」
反則ものの、低い声。
ぞわっと、寒さとは別の鳥肌が立つ。
「帰ってきたら、何でも言うこと聞いてやるよ」
頭をくしゃっとされ――はっと気づいた時には。
「ちょ、待て! こら!」
もう義経は、笑いながら後部座席のドアに消えるところだった。
加奈は鳥と二人きり、庭先に取り残されたのである。
ガーガッツ、ギャギャ。
けたたましく鳴く鳥の声で、加奈は現実を再認識させられたのだった。