CROW

10:義経

「何て言ってんだ?」

 光一と二人のパリの空の下は、毎度恒例の、異国語あてクイズと化す。

 ホテルのロビーでの一幕だ。

「光一くん、チョーカッコイイと言っている」

 相手が綺麗な女性だと、このむっつり男も、都合のいい翻訳結果を持ち出してくる。

「お針子ちゃんにチクるぞー」

 他のスタッフに聞こえないように、義経はにこやかに切りつけてやった。

 下っ端の彼女は、日本で留守番だ。

 おかげで、行きの飛行機の中の光一は、フテ寝三昧だった。

 痛いところを突かれたのか、むぅと彼は顔をしかめる。

 どちらも、外国語はさっぱりだった。

 フランス語はもとより、英語も。

 学生時代、二人とも立派なバカだったのだ。

 性格上、義経は口説き文句だけは、現地で体得していたが。

 しかし、今回の訪仏では、その言葉も封印されるようだ。

 誰かに義理立てするわけではないが、いまひとつ乗り気になれない。

 本命が出来たってことか?

 苦笑しながら、義経は顎をおさえた。

「そろそろ、真面目にフランス語覚えてくださいよー」

 しょっちゅう来るんですから。

 スタッフが、二人のバカっぽい会話に割って入ってくる。

 この日本語頑固な二人に、手を焼いているのだ。

 しゃべれないくせに、勝手に単独行動をとりたがるのだから。

 彼らが日本語頑固なら、フランス人もフランス語頑固だ。

 異国語が聞こえてきても動じないが、動じないまま合わせる気はまったくない。

 たいてい最後まで、フランス語オンリーで押し切られるのだ。

 バカな二人と、フランス人の国民性を考えると、話が通じるはずがない。

「ジュテームだけ知ってりゃ、なんとかなる」

 自分の部屋のキーを受け取りながらも、義経は言葉を覚える気はまったくないことをアピールした。

 がっくり。

 肩を落とすスタッフを尻目に、彼は部屋へ向かい始めた。

 時差ぼけの頭を、軽く左右に振りながら部屋に入ると、キーを鏡の前に放り投げる。

 時計を見ると、夕方の6時。

「シャワー、メシ……よりまず、こいつだな」

 ベッドのへりに座り込み、義経は携帯電話を取った。

「アロー、寝てたか?」

 やっとつながって、義経は最初のご挨拶をきめた。

『何時だと思ってんだ! コラ!』

 途端、電話の向こう側は、物凄い剣幕でまくしたてる。

 予想通りの反応だ。

 元気のいい、1万キロほど向こうの声だった。

 ローミング契約をしているので、携帯で国際電話がかけられるのだ。

 フランスが午後6時。

 日本は――午前2時。

 しかし、起きたばかりの声にしては、元気がいい。

 多分、夜更かしして服でも作っていたのだろう。

「よく電話取ったな。こないだまで、絶対取らなかったくせに」

 言い終わる前に。

『誰のせいだと!』

 声の背後から――ガーガー、ギャッ。

 わめき声に、九郎の元気な輪唱がくわわる。

 つい、鳥と格闘している加奈を想像して、笑ってしまう。

「エサ、分かるよな? 一緒につけといたから。水は空っぽになったら、足しといてくれ…それから、あんまりうるさく騒ぐようなら……」

 しそこねた説明をするのだが、電話の向こうは自分の不満をぶつけるので一生懸命で、騒ぎたてて聞いている様子はない。

「加奈…」

 苦笑しながら、彼女の名前を呼んだ。

 それでようやく、向こうは黙り込んだ。

 不自然な声の途切れ。

 義経が、名前を呼んだせいだろう。

「つけといたCDを流せば、大人しくなるから、頼むぜ」

 黙りこんでくれたのを幸いと、彼は言葉を続けた。

『CD! そうだよ、このCDなんだよ! バカにしてんの?』

 我に返ったようで、また元気に騒ぎ始める。

 笑いながら、その声を聞いていた。

 本当に、イキがいい、と。

「バカにしてねぇよ。そいつ、時々ヒステリーを起こすんでな。子守唄代わりに流してやれば、すぐ大人しくなる」

 電話の向こうは沈黙したが、うさんくさく思っている気配は漂ってくる。

 信じていないのだ。

 それから、はぁ、とため息のもれる音。

 耳元にダイレクトに届く吐息に、義経は舌をちらつかせた。

『…いつまで、これ預からせんだよ』

 フテくされた声は―― 可愛い。

 もう、どうにもならない追い詰められた声。

 無邪気な鳥を、見捨てる冷たさもない。

 そう仕向けたのは、自分だ。

 しかし、彼は本当に、加奈に鳥を預かって欲しかったのだ。

 預けるだけなら、美春でもよかった。

 里帰り、といっても電車でいくつ、の世界なのだから。

 あの鳥を、加奈に預けるということは。

 彼女が鳥を見る度に、義経を思い出すということだ。

 それが、たとえ忌々しいという気持ちを付随させるものであったとしても、かまわなかった。  
 
 九郎が、義経の存在を彼女の中で鮮明にするのだ。

 再び会うまで、ずっと。

「25日くらいには帰れるな、多分……パリで欲しいものがあったら言えよ」

 そう言うと――加奈はうなり声をあげた。

 そして、言った。

『くたばれ』

 思わず、義経はパリの空の下、大爆笑してしまった。

 ベッドに、ばたんとひっくり返りながら。

「ダメだな。オレが死んだら、お前は泣くだろう?」

 彼の一言に、電話が絶句した。

 このタイミングは、絶好の抱擁日和だ。

 遠く遠く離れているのが惜しい瞬間。

「加奈…」

 名前を呼んで、ああ、と思う。

 まだ、彼女は自分を名前で呼んだことはなかったな、と。

 呼ばれたら、自分はどう思うのだろう。

「加奈…九郎と一緒に、待っててくれや…オレは、その間、あのスーツだけで我慢しとくぜ」

 想像がつかずに、肩をすくめながらも、なんとか彼女の意識を取り戻そうとする。

「あのスーツ!? まさか、そっちに持ってってんのか!?」

 しかし、戻りすぎてしまった。

 義経の言葉に、弾ける声。

 スーツケースの中の配置を、頭で思い描く。

 確かにフルセットで入っているので、ああ、とうなずく。

 すると、地の底から這うようなうめき声が聞こえてきた。

「着んな! 絶対そっちで着んなよ!」

「なんで? アレはもうオレのもんだろ?」

 明日の顔見せの時に、着て行こうと思っていたのだ。

「カンベンしてくれよ…」

 がっくりと脱力した声。

 さっきから、気配が縦横無尽に変化していく。

 義経は、面白がっていた。

 しかし、なぜスーツを着るのを止めるのだろうか。

 彼にしてみれば、自分をもっと色男にしてくれるアイテムに思えて、気に入っているのだが。

「お前は『YOKO』のモデルなんだぞ」

『YOKO』の服を着て、それをアピールするのが仕事だ――そう言いたいのだろう。

 加奈の声は、少し傷ついているようにも感じた。

 そこで、やっと思い出したのだ。

 彼女は、まだ自分が『ノー』と言ったことにこだわっているのか、と。

 まったく。

「その件も、帰ってきてからゆっくり、な…」

 とにかく、明日このスーツを着る予定を、変更する気はなかった。

「ああそうだ、ここで加奈に、フランス語クイズ…」

 だから、義経は軽い声で彼女の意識を、別方向に引っ掛けることにした。

「『ジュテーム』の言葉の意味は…何でしょう?」

 クイズ番組の司会者よろしく、颯爽と問題を出すと。

 ガチャン!

 直後。

 電話は、ぶっつりと切られていた。

 しばし、電話を眺めた後――肩を震わせて笑ってしまった。

 さすがは、加奈。

 期待を裏切らない。

 そして、ついでにもう一つ想像して、笑いを上乗せした。

 九郎がヒステリーを起こした時、彼女がCDを流したら、と。


 鳥は――『キャンディーズ』の歌声が、大好きだったのだ。
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