CROW

11:加奈

「あの人はぁ…悪魔……わたしを~トリコにするぅ……」

 などと、はっと気づいた時には口にしてしまうようになったキャンディーズの歌は、1月24日の夕方。

 予定通りにいけば、明日にはそのクセの元凶もなくなるだろう。

 加奈は、顔を上げて鳥かごを見た。

 最近は、やっとおとなしくなってくれたが、最初の頃は大変だった。

 やたら、ガーガーとうるさくないて―― ここが、自分の家じゃないと知って、嫌がっているのだろうか。

 だから、あのCDの出番となったのだ。

 最初にかけた時には。思わずひっくり返ってしまった。

 この真冬に、『暑中お見舞い申し上げます』、と歌いだされたのだから。

 しかし、確かに義経の言ったとおり、流している間の九郎は大人しかった。

 くちばしで羽根の手入れなどをして、のどかにすごしている。

 おかげで仕事場は、鳥とキャンディーズ一色に染められてしまった。

 手間のかかる動物には、情がわいてくる。

 人間には、そんな不思議な習性があって。

 加奈も結局――九郎を可愛がってしまったのだ。

 飼い主には思うところはあっても、鳥には罪がないのだから。

 しかし、九官鳥と言えば、日本ではしゃべる鳥の代表だ。

 九郎は、カラスのように鳴くばかり。

 義経が教える気がなかったのか、はたまた、九郎が覚える気がないのか。

「ホラ、言ってみろよ…義経のバーカって」

 腹いせに、加奈は何度も鳥かごに向かって、その言葉を教え込もうとした。

 うっかり覚えたら、彼がどんな顔をするか。

 たまには、いい気味だと思ってみたいのだ。

 だが、九郎は首を傾げて、ギャーギャー言うだけで。

 どうやら、覚える気はないようだった。

「あーあ…もうちょっとなんだぞ、九郎」

 作業場には、沢山の服の山。

 ずっとオーバーペースで、彼女は作り続けていた。

 全て、女物だ。

 いつも服を入れている店から、うちの上位ブランドにスタッフとして入らないかと誘われた。

 勿論、加奈は断る。

 それじゃ、意味がないのだ。

 彼女の本当の狙いは、上位ブランドではなく――更にその上なのだ。

 加奈は、売れ行きに手ごたえを感じていた。

 しかし、本当に服に目を留めて欲しいのは、女の子たちじゃなかった。

「もう…ちょっと」

 調子はいい。

 このペースは、順調すぎるほどだ。

 まだ彼女の人生は、先が長いのだから。

 焦ることはない――頭では、わかっているのだ。

 彼女は、九郎を覗き込んだ。

 くりくりの黒い目が、しばしばと瞬く。

 加奈は、ついそれに笑いそうになる自分をおさえながら、窓を開けにいった。

 空気を入れ替えしないと、二酸化炭素と埃で死にそうだったのだ。

 新春の風は冷たかったが、一瞬にして肺と部屋に新鮮な空気が飛び込んでくるのが分かった。

 鳥かごの中で、九郎もぶるっと身体を震わせる。

「あはは…お前も寒いか」

 笑いながら、外を見る。

 冬の早い夕方が、辺りをどんどん暗くし始めていく。

 そんな時。

「カカカ…カーナッ…」

 いきなり、自分の名前らしきものが呼ばれ、彼女はびっくりして振り返った。

「く……九郎」

 お前か?

 鳥かごの中の鳥は、ギャッと鳴いた。

 加奈は、その疑惑の鳥に近づきつつ、じーっと見つめた。

「いま、あたしの名前呼んでない? お前」

 詰め寄ると、九郎は小首をかしげる。

「とぼけんな! いま、お前呼んだだろ、あたしの名前! なんでそんな言葉、覚えてんだ!」

 自分以外、誰もいないこの部屋に、ずっと九郎はいたのだ。

 そんな場所で、「カナ」なんて言葉を聞く機会があったはずがない。

 カンベンしてよ――加奈は、頭を抱えかけた。

 いやまてよ。

 もしかしたら、他の言葉を言おうとしていたのかもしれない。

 それが、たまたま名前に似ていただけなのかも。

 そう自分を納得させようとした――のに。

「カーナッ…カナー」

 どんづまりみたいな発音で、鳥かごの中から声が飛び出すのだった。

 こ、この……。

「九郎…!」

 ばっと鳥かごのふたを開けて、カナはちょっと小突いてやろうと手を突っ込んだ。

 それくらい、許されると思っていた。

 刹那。

 鋭い九郎のクチバシが、加奈の手をつっついた。

「アタッ!」

 反射的に手を引き抜いた時。

 鳥かごのふたが閉まるより先。

 ぴょん。

 九郎は、軽い足取りで、加奈の腕に飛び移っていたのだ。

 あ。

 彼女は、とっさに窓を見てしまった。

 九郎を捕まえるより先に、開いたままの窓を。

 鳥も、同じ首の動きをした。

 黒い羽根が、一瞬加奈の目の前で、大きく広がる。

 バサバサッ。

「ちょ…うそだろ!」

 黒い鳥が、窓の外へと飛び出していくではないか。

「お、おい! マジかよ!」

 慌てて加奈は、窓から身を乗り出したが、すでに鳥の影も形もない。

 部屋を飛び出し、玄関に駆けつけると、スニーカーに足を突っ込んだ。

 頭の中で、ヤバイヤバイと言葉が繰り返すばかり。

 ばたんっと乱暴に玄関を開け去り、表に飛び出そうとした。

 が。

「何だ? お前エスパーか?」

 呼び鈴を押しかけた手を止めて、驚いている男がいる。

 しかし、加奈の方がもっと驚いていた。

 心臓が止まりそうなほど、だ。

 あの声は――あのバリトンは。


 いま、一番会いたくない男。

 ※

 一日早く、帰ってくるなよー!

 心の中で、加奈は絶叫する。

 たったいま、九郎が逃げ出したばかりですと、言えるはずがなかった。

「あ…う…あ……」

 言葉を失いかけたまま、加奈が立ち尽くしていると。

 バサッ。

 頭上で、一つ羽音が聞こえた。

「ん…?」

 見上げる顎。

 加奈もそれにつられた。

「うわ…九郎……そういう出迎えか」

 あっはっは。

 見上げた視界に入ったものに、義経は笑い出す。

 夕暮れに、黒い影が落ちる。

 あ。

 目を――奪われる。

 そして。

「ほら…」

 上空に向けて、義経は腕を伸ばしたのだ。

 一度彼の頭上を、影が旋回した後。

 バサッバサ。

 九郎が、その腕に舞い降りる。

 夕焼けが見せる魔法のような一瞬。

 へなへなっ。

 釘付けになりながらも、彼女はその場にへたり込んだ。

 驚きと呆然と安堵と。

 それらが、加奈から力を奪ってしまったのである。

「ば…ばかやろー」

 力なく罵倒するのが精一杯。

 それに、義経はにやっと笑った。

 だが。

 彼女の言葉に、触発されたのだろうか。

「ガガ…バーカ……ヨシツネバーカ」

 こ、こんな時に。

 全身力が抜けまくっている状態での、素晴らしい追い討ちだった。

「ふーん」

 義経は、きちんと九郎を両手で捕獲しながら、その鳥の顔と、加奈を交互に見比べた。

 このボロボロの状態で、いまひどいことを言われたら、きっと粉々になってしまうだろう。

 加奈は、次の言葉を恐れた。

「誰かさんそっくりな、綺麗な言葉だな…おい」

 しかし、彼はおかしそうに、顔をにやつかせているだけだ。

 へたりこんだまま、立ち上がれない加奈の前に腰を折って近づきながら、彼は両手で九郎を差し出した。

 受け取れ、ということだろう。

 逃がしてしまった負い目もあるが、本当にいまはもういろいろ考えたくなくて、それを素直に両手で受け取る。

 目の前で、鳥は黄色いくちばしを大きく開けながら、ギャギャッとわめいて。

「…バーカッ…バーカ」

 好き放題いわれるのも、いまは耐えなければならない。

 とにかく、ただしっかり九郎を捕まえていると。

「わわっ」

 突然、視界がひっくりかえった。

 危なく、手を放してしまうところだったではないか。

「ただいま……願い事は、何にするか決めたか?」

 義経は。九郎を抱える加奈を――ひょいと抱き上げていたのだった。
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