CROW
1:加奈
「よいせっ……」
ボディ・スタンドを両脇に抱えて歩くのは、結構かさばって面倒だ。
特に胸のあるボディは、デコボコしすぎて持ちにくい。
それに、人間の胴体部分だけを切り離したみたいに見えて、加奈は余り好きにはなれなかった。
この業界の、必需品だというのに。
そんなこんなで苦労しつつ、ようやく彼女は目的地にたどりつく。
しかし、無粋なドアが目の前に立ちふさがっているではないか。
加奈は、周囲に誰もいないのを確認すると、足でドアを開けた。
「ボディ、ここ置いときまーす」
中は、騒然としたものだ。
パタンナーやカッターたちが、ひしめきながら意見を交わしている。
彼らの言葉は、暗号よりも難解だ。
一般人が紛れ込んだなら、外国にきたかと勘違いするほどに。
そんな異世界の中の人間たちは、誰もボディを持ってきた存在に気づきすらしなかった。
コレクション前の、一番煮詰まっている時期のせいだろう。
加奈は、肩をそびやかしながら、無言で部屋を出た。
今度はちゃんと両手が開いているので、ドアを足で閉めることはなかったが。
「やれやれ」
一番最初にそれを呟く。
自分が、かなり場違いなところで働いている気がしてしょうがなかったのだ。
立場上は、バイトなのだが。
佐々木加奈は――十九だった。
高校を卒業した年の冬になるが、進学もしなければ、まっとうな就職口も見つけなかった。
いわゆる、プーである。
彼女は乱暴なほどの金色に髪を染めていたが、これは高校の時からだ。
そう。
彼女は、れっきとしたヤンキーだった。
適当にバイトして、ある程度お金がたまったらやめて遊んで。
また、お金がなくなったらバイトして。
そんな悪循環を繰り返して、ここは7つ目のバイト先だった。
ここでは、少しまとまったお金が欲しかった。
車だ。
加奈は、自分の車を手に入れたかったのである。
いまさら昔のヤンキーのような、そういう意味で立派な車が欲しかったわけじゃない。
しかし、ある程度のレベルを望むなら、この年齢にとってはかなりの額が必要だった。
本当は。
ここでだけは、バイトをしたくなかったというのが本音だった。
何故ならここは── 加奈の母親の会社だったのだ。
雇われデザイナーではなく、ほんものの独立したデザイナー。
『YOKO』
母親の名前だ。
加奈はよく、「ヨコ」とバカにして呼ぶが。
中学くらいまでは、母親の口車に乗せられるように、デザインや縫製を楽しんでいた。
しかし、それも高校一年の夏くらいまで。
反抗期が一気に訪れ、母親の存在も仕事も鬱陶しくなり、ハサミを投げ捨てたのだ。
それを期に、ヤンキーの道を歩んでいった。
家にも帰らず、バカなことばっかりやっていた。
何かやらかしても、学校からの呼び出しに、母親が応じたことはない。
本人も忙しい上に、ぱったりミシンを使わなくなった加奈と、あの数年は冷戦状態だったのだ。
『行きません、イヤです』
電話できっぱり断られた担任の青い顔を見ながら、腹をかかえて笑った記憶がある。
しかし、その日から担任は、彼女を見る目を変えた。
ああいう親じゃ、こう育っても仕方がない、と。
愛情をもらえなかったんだ、かわいそうに── ますます、抱腹絶倒だった。
まあ、それでも何とか、三年で高校を卒業できた。
と、思ったら。
今度は、母親があの冷戦を忘れたかのように、手招きしているではないか。
うちの仕事場にこい、と。
さすがにもう、ただ反発するだけの小娘ではなかったのを、向こうも気づいたのだろう。
金の面では魅力的だが、まともに雇われると不都合なことが多いと、加奈は最初から分かっていた。
他の連中の風あたりがきついのだ。
何しろスタッフは、相応の勉強をして、この業界に入ってきたのである。
普通高卒のみで、特殊な勉強をしたわけでもなく、元ヤンキーで、しかも経営者兼デザイナーの娘が入ってきたら――いらぬ誤解を生む。
だから、バイトだ。
娘をバイトに雇っていても、他の連中はほとんど気にも止めない。
仕事は、あくまでも雑用。
自分の領分に割って入れる存在ではないと分かると、不思議と人は無関心になるものだ。
しかし、それは完全な隠れ蓑に過ぎなかった。
何故ならば、確かにメインで雑用をやらされてはいるが、時々有無も言わさず、母親直々に、切ったり縫ったりの仕事を押し付けられる。
デザイナー ── すなわち母親が、デザイン画を投げ与えて、『明日までにつくっといて』は、ないものだ。
しかも、不完全なデザイン画。
モデルのサイズは書いてあるものの、布地、糸、裏地その他すべての指定なし。
それっきり、母は雲隠れ。
不完全な部分を補える人は、誰もいなかった。
シメるぞ、ゴルァ。
額に交差点を浮かべながら、加奈は勝手知ったる倉庫に入り、布を引っ張り出し、ミシンを担いで人の来ない倉庫で作業を始めなければならないのだ。
別の時には。
今度はきちんとデザイン及び指定もしてあるものを差し出されたが、その枚数が半端ではない。
平気で20枚とかある。
『シメキリまでによろしくね』── 加奈は、母親をアッパーカットで星にした。心の中で、だが。
おかげで、何日も徹夜しながら一人で作業するハメになったのだ。
確かに、誰か知らない鼻持ちならないやつに、使われるのはまっぴらで。
ましてや、自分が人を使うのも。
だから、一人の方がいいのだ。
しかーーし!
バイトの限度を、はるかに超えすぎていた。
高校時代の反抗のツケが、一気に回ってきた気分だ。
車の頭金たまったら、すぐにやめてやる。
思い出し怒りをしながら、加奈はそれをもう一度胸に誓った。
さて、彼女が頼まれた仕事は二つあった。
ひとつは、山口デザイン室にボディを二つ届けること。
もうひとつは。
母親直々の呼び出し、だ。
これから、彼女の部屋に行かなければならない。
いや~な予感をいっぱい抱えながら、加奈は上の階に向かったのだった。
ボディ・スタンドを両脇に抱えて歩くのは、結構かさばって面倒だ。
特に胸のあるボディは、デコボコしすぎて持ちにくい。
それに、人間の胴体部分だけを切り離したみたいに見えて、加奈は余り好きにはなれなかった。
この業界の、必需品だというのに。
そんなこんなで苦労しつつ、ようやく彼女は目的地にたどりつく。
しかし、無粋なドアが目の前に立ちふさがっているではないか。
加奈は、周囲に誰もいないのを確認すると、足でドアを開けた。
「ボディ、ここ置いときまーす」
中は、騒然としたものだ。
パタンナーやカッターたちが、ひしめきながら意見を交わしている。
彼らの言葉は、暗号よりも難解だ。
一般人が紛れ込んだなら、外国にきたかと勘違いするほどに。
そんな異世界の中の人間たちは、誰もボディを持ってきた存在に気づきすらしなかった。
コレクション前の、一番煮詰まっている時期のせいだろう。
加奈は、肩をそびやかしながら、無言で部屋を出た。
今度はちゃんと両手が開いているので、ドアを足で閉めることはなかったが。
「やれやれ」
一番最初にそれを呟く。
自分が、かなり場違いなところで働いている気がしてしょうがなかったのだ。
立場上は、バイトなのだが。
佐々木加奈は――十九だった。
高校を卒業した年の冬になるが、進学もしなければ、まっとうな就職口も見つけなかった。
いわゆる、プーである。
彼女は乱暴なほどの金色に髪を染めていたが、これは高校の時からだ。
そう。
彼女は、れっきとしたヤンキーだった。
適当にバイトして、ある程度お金がたまったらやめて遊んで。
また、お金がなくなったらバイトして。
そんな悪循環を繰り返して、ここは7つ目のバイト先だった。
ここでは、少しまとまったお金が欲しかった。
車だ。
加奈は、自分の車を手に入れたかったのである。
いまさら昔のヤンキーのような、そういう意味で立派な車が欲しかったわけじゃない。
しかし、ある程度のレベルを望むなら、この年齢にとってはかなりの額が必要だった。
本当は。
ここでだけは、バイトをしたくなかったというのが本音だった。
何故ならここは── 加奈の母親の会社だったのだ。
雇われデザイナーではなく、ほんものの独立したデザイナー。
『YOKO』
母親の名前だ。
加奈はよく、「ヨコ」とバカにして呼ぶが。
中学くらいまでは、母親の口車に乗せられるように、デザインや縫製を楽しんでいた。
しかし、それも高校一年の夏くらいまで。
反抗期が一気に訪れ、母親の存在も仕事も鬱陶しくなり、ハサミを投げ捨てたのだ。
それを期に、ヤンキーの道を歩んでいった。
家にも帰らず、バカなことばっかりやっていた。
何かやらかしても、学校からの呼び出しに、母親が応じたことはない。
本人も忙しい上に、ぱったりミシンを使わなくなった加奈と、あの数年は冷戦状態だったのだ。
『行きません、イヤです』
電話できっぱり断られた担任の青い顔を見ながら、腹をかかえて笑った記憶がある。
しかし、その日から担任は、彼女を見る目を変えた。
ああいう親じゃ、こう育っても仕方がない、と。
愛情をもらえなかったんだ、かわいそうに── ますます、抱腹絶倒だった。
まあ、それでも何とか、三年で高校を卒業できた。
と、思ったら。
今度は、母親があの冷戦を忘れたかのように、手招きしているではないか。
うちの仕事場にこい、と。
さすがにもう、ただ反発するだけの小娘ではなかったのを、向こうも気づいたのだろう。
金の面では魅力的だが、まともに雇われると不都合なことが多いと、加奈は最初から分かっていた。
他の連中の風あたりがきついのだ。
何しろスタッフは、相応の勉強をして、この業界に入ってきたのである。
普通高卒のみで、特殊な勉強をしたわけでもなく、元ヤンキーで、しかも経営者兼デザイナーの娘が入ってきたら――いらぬ誤解を生む。
だから、バイトだ。
娘をバイトに雇っていても、他の連中はほとんど気にも止めない。
仕事は、あくまでも雑用。
自分の領分に割って入れる存在ではないと分かると、不思議と人は無関心になるものだ。
しかし、それは完全な隠れ蓑に過ぎなかった。
何故ならば、確かにメインで雑用をやらされてはいるが、時々有無も言わさず、母親直々に、切ったり縫ったりの仕事を押し付けられる。
デザイナー ── すなわち母親が、デザイン画を投げ与えて、『明日までにつくっといて』は、ないものだ。
しかも、不完全なデザイン画。
モデルのサイズは書いてあるものの、布地、糸、裏地その他すべての指定なし。
それっきり、母は雲隠れ。
不完全な部分を補える人は、誰もいなかった。
シメるぞ、ゴルァ。
額に交差点を浮かべながら、加奈は勝手知ったる倉庫に入り、布を引っ張り出し、ミシンを担いで人の来ない倉庫で作業を始めなければならないのだ。
別の時には。
今度はきちんとデザイン及び指定もしてあるものを差し出されたが、その枚数が半端ではない。
平気で20枚とかある。
『シメキリまでによろしくね』── 加奈は、母親をアッパーカットで星にした。心の中で、だが。
おかげで、何日も徹夜しながら一人で作業するハメになったのだ。
確かに、誰か知らない鼻持ちならないやつに、使われるのはまっぴらで。
ましてや、自分が人を使うのも。
だから、一人の方がいいのだ。
しかーーし!
バイトの限度を、はるかに超えすぎていた。
高校時代の反抗のツケが、一気に回ってきた気分だ。
車の頭金たまったら、すぐにやめてやる。
思い出し怒りをしながら、加奈はそれをもう一度胸に誓った。
さて、彼女が頼まれた仕事は二つあった。
ひとつは、山口デザイン室にボディを二つ届けること。
もうひとつは。
母親直々の呼び出し、だ。
これから、彼女の部屋に行かなければならない。
いや~な予感をいっぱい抱えながら、加奈は上の階に向かったのだった。