CROW
15:加奈
加奈は、やっと面倒臭いスポンサーとの、春一番の打ち合わせが終わって、やれやれで帰ってきたところだった。
窓の外には、夕焼けが消えかけている。
窮屈なスーツに身を包んで、愛想笑いを浮かべて――帰った早々、加奈はそれらを全部脱ぎ捨てて、風呂場に飛びこんだ。
もし、いまここに九郎がいたら、さぞ騒がしかっただろうと思えるほど相手に移された、香水や整髪料の匂い。
九郎か。
あの妙に愛嬌のある九官鳥は、加奈の心に大きく残っていて。
あの鳥が売ってあるのを見たら、うっかり買ってしまいそうだ。
タオルを頭からかぶって、ジーンズとシャツで出てくる頃には、妙な匂いは全部流れきっていた。
ようやく、すっきりして加奈は冷蔵庫を開けるのだ。
お茶のペットボトルを取り出し、彼女は大きなクッションに背中を預けた。
人間らしくなってきた部屋を見回す。
いきなり家を飛び出したのには、理由があった。
スポンサーが見つかって、母親と違う立場で仕事を始めるようになったからである。
しかも、一番のスポンサーは、有名な繊維会社だ。
ちなみに、母のスポンサーはそのライバル社。
とてもじゃないが、一緒に暮らして角が立たないとは思えない。
それ以前に、互いのスポンサーが許すはずがなかった。
言わば、加奈と洋子は、立派な商売仇になってしまったのだから。
お茶を喉に流し込みながら、ふぅっと大きなため息を落とした。
まずは、第一段階突破というところか。
駅前のビル内に、彼女のブティックがオープンした、
それと同時に、街中にあのポスターが貼り巡らされているはずだ。
そして――
加奈は、想像して笑ってしまった。
きっとあの男は、ポスターを目撃して、死ぬほどびっくりしているだろう。
ざまぁみろ、だ。
最近、音沙汰のない妹の行方が、いきなりポスターの中にあれば、驚かない方がウソというものだ。
実際、美春はいいモデルだった。
背がそう高くないため、ステージモデルとして使うというわけにはいかないが、スチールモデルとしては十分だ。
女の中では、だが。
しかし、女物の服をメインに作りたいわけではなかった。
レディースは、ひとつの足がかりだと思っていたが、そこで終わるわけにはいかないのだ。
一番作りたい服は。
そこまで思った時、チャイムが鳴った。
誰だろう。
フォンを取ると、花屋が来たとの報せだ。
舌打ちした。
酔狂なスポンサーの誰かが、やらかした仕業だろう。
金持ちの考えることは、加奈には理解しがたいものだと、今日はっきりと分かった。
加奈は、玄関の自動ドアを開けてやって、部屋まで上がってくるのを待った。
予定通り、部屋のチャイムが鳴る。
お茶を置き、面倒くさくタオルをかぶったままドアを開けた。
一面の、赤いバラの花束。
余りの大量のそれに、度肝を抜かれてしまう。
まったく。
呆れながらも、それを受け取ろうとした時。
その大きな花束の影から、配達人が顔を出した。
「正式デビュー、おめでとさん」
ニヤリと笑ったその顔は。
加奈は、目をひんむいたまま、バラを抱いた男を見つめてしまった。
とっさに、彼の名前が出てこなかった。
※
「へぇ……結構広いじゃないか」
加奈は、入れる気はなかった。
それは本当だ。
入れる気はなかったのだが、人間頭が真っ白になると、相手がズカズカ入ってきて、ドアを閉めようが、腕にしっかりと花束を握らされようが、すぐには我に返れないもので。
はっとした時にはもう、義経は居間から外の景色を眺めている。
その背中を、無言で見つめるしかできない、自分の不甲斐なさ。
言葉が、浮かんでこない。
どう反応したらいいのか。
驚くのは済んだ。
そうしたら、次は何がくるのか。
怒るのか、喜ぶのか。
結局、ぶすったれたまま、彼を見るしかできないのだ。
「何て、顔してんだ……」
振り返った義経に、その表情を気づかれる。
自分の眉間を指差した後、たしなめるみたいに片目を伏せる。
加奈はバラを抱えたまま、しかし表情は変えられない。
何でここが分かったのか。
そう思いながらも、原因には思い当たった。
美春だ。
彼女が、仕事場をバラしたのだ。
そして、きっと口の軽いスタッフから、義経が聞きだしたに違いない。
「しっかし、美春を先にたぶらかすとは……オレでも考えつかなかったぜ」
嬉しいだろ? 驚いたぜ。
そう笑いながら言われても、ちっとも加奈は嬉しくない。
確かに、彼は驚いたのだろう。
しかし、反撃が見事になされた後では、喜びは既に立ち消えてしまっていた。
なのに。
義経はその笑みを、うっすら切ない色に変えるのだ。
「全然、電話をしても捕まらず、ヨーコさんに聞きゃ、行方不明だっていうし……あーまぁ、そういうワケだ」
義経は、すっかりお手上げみたいに、両手を上げてみせた。
その期間が、彼に与えた大きさが、垣間見える。
こいつは、ズルイ。
加奈は、まだ言葉を吐けないまま、そう思った。
そうやって、自分の思いばかりを向けられると、彼女は答えようがなくなってしまう。
慣れたみたいにベタベタするのもイヤだったし、当たり前みたいに受け取るのもイヤだった。
だから、こうしてやむを得ず、みたいな表情を浮かべて、心のやり場に困るだけだ。
砂場があれば、埋めてしまいたかった。
しかし、義経への思いなら、きっとその砂場から芽を出して花まで咲かせて、それがまたしゃべりかねなかった。
「やっと、見つけたぜ」
まったくと、顔をゆがめるように笑って、彼は手を伸ばしてくる。
動けなかったのは、持っていた花束が重かったから、なんてバカらしい理由じゃいけないんだろうか。
加奈は、まだそんな往生際の悪いことを思いながら、義経の腕に取り込まれていた。
胸の中で、セロファンがうるさい音を立てる。
「おっと…邪魔」
勝手に花束は奪われ、挙句、そのへんに放り投げられる。
とても、人にあげた花束の扱いではない。
しかし、そうしてしまうと義経は、こっちが一番大事とでも言わんばかりに、邪魔のなくなった彼女をぎゅっと抱きしめるのだ。
髪に息がかかって、加奈を困らせる。
片方の指が、抱きしめたままの彼女の頬を探るように動いた。
耳まで、たどりつく。
「もう、オレの気をひこうと、行方不明になったりすんなよ」
少し冗談めかして言われた時、彼を睨み上げてしまった。
そんな子供じみたことのために、引越したと思われていたのか、と。
スポンサーが見つかったとか、ブティックがオープンするとか、そんなことをいちいち報告なんかしたくなかった。
一番やりたいのは、彼の前に契約書を突き出すことだ。
『YOKO』に違約金をつきつけることだ。
「冗談だぜ……目くじらたてんな」
少し、どこか残念そうに見えるのは、加奈の思い違いか。
「あーあ…いつになったら加奈は……」
そこまで言われた時、彼女はビクッとしてしまった。
いつになったら、彼に契約書を突き出せるのか――まだ、男物の店も確立していないいま。
しかし、ここまでのスピードを考えると、無理な話ではない。
そう思えたし、そうするつもりだった。
「もう少し、待ってろ」
本当に、もう少しなのかは分からない。
しかし、決意とともに見上げると、彼は少しきょとんとしていた。
「いつになったら、加奈はオレに素直になってくれるもんかね…と言いたかっただけなんだが…そっか、もう少しか」
ニヤリと、義経の口元が上がって。
加奈は、自分が立派に早合点したことを知るのだ。
青くなった。
その頬を、軽く叩かれて。
「その言葉……忘れんなよ」
クスクス笑いに代わった吐息が、触れてこようとする。
後で。
どれだけ加奈が、さっきの言葉は誤解だとわめいても、義経は取り合ってくれなかったのだった。
窓の外には、夕焼けが消えかけている。
窮屈なスーツに身を包んで、愛想笑いを浮かべて――帰った早々、加奈はそれらを全部脱ぎ捨てて、風呂場に飛びこんだ。
もし、いまここに九郎がいたら、さぞ騒がしかっただろうと思えるほど相手に移された、香水や整髪料の匂い。
九郎か。
あの妙に愛嬌のある九官鳥は、加奈の心に大きく残っていて。
あの鳥が売ってあるのを見たら、うっかり買ってしまいそうだ。
タオルを頭からかぶって、ジーンズとシャツで出てくる頃には、妙な匂いは全部流れきっていた。
ようやく、すっきりして加奈は冷蔵庫を開けるのだ。
お茶のペットボトルを取り出し、彼女は大きなクッションに背中を預けた。
人間らしくなってきた部屋を見回す。
いきなり家を飛び出したのには、理由があった。
スポンサーが見つかって、母親と違う立場で仕事を始めるようになったからである。
しかも、一番のスポンサーは、有名な繊維会社だ。
ちなみに、母のスポンサーはそのライバル社。
とてもじゃないが、一緒に暮らして角が立たないとは思えない。
それ以前に、互いのスポンサーが許すはずがなかった。
言わば、加奈と洋子は、立派な商売仇になってしまったのだから。
お茶を喉に流し込みながら、ふぅっと大きなため息を落とした。
まずは、第一段階突破というところか。
駅前のビル内に、彼女のブティックがオープンした、
それと同時に、街中にあのポスターが貼り巡らされているはずだ。
そして――
加奈は、想像して笑ってしまった。
きっとあの男は、ポスターを目撃して、死ぬほどびっくりしているだろう。
ざまぁみろ、だ。
最近、音沙汰のない妹の行方が、いきなりポスターの中にあれば、驚かない方がウソというものだ。
実際、美春はいいモデルだった。
背がそう高くないため、ステージモデルとして使うというわけにはいかないが、スチールモデルとしては十分だ。
女の中では、だが。
しかし、女物の服をメインに作りたいわけではなかった。
レディースは、ひとつの足がかりだと思っていたが、そこで終わるわけにはいかないのだ。
一番作りたい服は。
そこまで思った時、チャイムが鳴った。
誰だろう。
フォンを取ると、花屋が来たとの報せだ。
舌打ちした。
酔狂なスポンサーの誰かが、やらかした仕業だろう。
金持ちの考えることは、加奈には理解しがたいものだと、今日はっきりと分かった。
加奈は、玄関の自動ドアを開けてやって、部屋まで上がってくるのを待った。
予定通り、部屋のチャイムが鳴る。
お茶を置き、面倒くさくタオルをかぶったままドアを開けた。
一面の、赤いバラの花束。
余りの大量のそれに、度肝を抜かれてしまう。
まったく。
呆れながらも、それを受け取ろうとした時。
その大きな花束の影から、配達人が顔を出した。
「正式デビュー、おめでとさん」
ニヤリと笑ったその顔は。
加奈は、目をひんむいたまま、バラを抱いた男を見つめてしまった。
とっさに、彼の名前が出てこなかった。
※
「へぇ……結構広いじゃないか」
加奈は、入れる気はなかった。
それは本当だ。
入れる気はなかったのだが、人間頭が真っ白になると、相手がズカズカ入ってきて、ドアを閉めようが、腕にしっかりと花束を握らされようが、すぐには我に返れないもので。
はっとした時にはもう、義経は居間から外の景色を眺めている。
その背中を、無言で見つめるしかできない、自分の不甲斐なさ。
言葉が、浮かんでこない。
どう反応したらいいのか。
驚くのは済んだ。
そうしたら、次は何がくるのか。
怒るのか、喜ぶのか。
結局、ぶすったれたまま、彼を見るしかできないのだ。
「何て、顔してんだ……」
振り返った義経に、その表情を気づかれる。
自分の眉間を指差した後、たしなめるみたいに片目を伏せる。
加奈はバラを抱えたまま、しかし表情は変えられない。
何でここが分かったのか。
そう思いながらも、原因には思い当たった。
美春だ。
彼女が、仕事場をバラしたのだ。
そして、きっと口の軽いスタッフから、義経が聞きだしたに違いない。
「しっかし、美春を先にたぶらかすとは……オレでも考えつかなかったぜ」
嬉しいだろ? 驚いたぜ。
そう笑いながら言われても、ちっとも加奈は嬉しくない。
確かに、彼は驚いたのだろう。
しかし、反撃が見事になされた後では、喜びは既に立ち消えてしまっていた。
なのに。
義経はその笑みを、うっすら切ない色に変えるのだ。
「全然、電話をしても捕まらず、ヨーコさんに聞きゃ、行方不明だっていうし……あーまぁ、そういうワケだ」
義経は、すっかりお手上げみたいに、両手を上げてみせた。
その期間が、彼に与えた大きさが、垣間見える。
こいつは、ズルイ。
加奈は、まだ言葉を吐けないまま、そう思った。
そうやって、自分の思いばかりを向けられると、彼女は答えようがなくなってしまう。
慣れたみたいにベタベタするのもイヤだったし、当たり前みたいに受け取るのもイヤだった。
だから、こうしてやむを得ず、みたいな表情を浮かべて、心のやり場に困るだけだ。
砂場があれば、埋めてしまいたかった。
しかし、義経への思いなら、きっとその砂場から芽を出して花まで咲かせて、それがまたしゃべりかねなかった。
「やっと、見つけたぜ」
まったくと、顔をゆがめるように笑って、彼は手を伸ばしてくる。
動けなかったのは、持っていた花束が重かったから、なんてバカらしい理由じゃいけないんだろうか。
加奈は、まだそんな往生際の悪いことを思いながら、義経の腕に取り込まれていた。
胸の中で、セロファンがうるさい音を立てる。
「おっと…邪魔」
勝手に花束は奪われ、挙句、そのへんに放り投げられる。
とても、人にあげた花束の扱いではない。
しかし、そうしてしまうと義経は、こっちが一番大事とでも言わんばかりに、邪魔のなくなった彼女をぎゅっと抱きしめるのだ。
髪に息がかかって、加奈を困らせる。
片方の指が、抱きしめたままの彼女の頬を探るように動いた。
耳まで、たどりつく。
「もう、オレの気をひこうと、行方不明になったりすんなよ」
少し冗談めかして言われた時、彼を睨み上げてしまった。
そんな子供じみたことのために、引越したと思われていたのか、と。
スポンサーが見つかったとか、ブティックがオープンするとか、そんなことをいちいち報告なんかしたくなかった。
一番やりたいのは、彼の前に契約書を突き出すことだ。
『YOKO』に違約金をつきつけることだ。
「冗談だぜ……目くじらたてんな」
少し、どこか残念そうに見えるのは、加奈の思い違いか。
「あーあ…いつになったら加奈は……」
そこまで言われた時、彼女はビクッとしてしまった。
いつになったら、彼に契約書を突き出せるのか――まだ、男物の店も確立していないいま。
しかし、ここまでのスピードを考えると、無理な話ではない。
そう思えたし、そうするつもりだった。
「もう少し、待ってろ」
本当に、もう少しなのかは分からない。
しかし、決意とともに見上げると、彼は少しきょとんとしていた。
「いつになったら、加奈はオレに素直になってくれるもんかね…と言いたかっただけなんだが…そっか、もう少しか」
ニヤリと、義経の口元が上がって。
加奈は、自分が立派に早合点したことを知るのだ。
青くなった。
その頬を、軽く叩かれて。
「その言葉……忘れんなよ」
クスクス笑いに代わった吐息が、触れてこようとする。
後で。
どれだけ加奈が、さっきの言葉は誤解だとわめいても、義経は取り合ってくれなかったのだった。