CROW

16:義経

 朝、目が覚めたら――隣に加奈が眠っていた。

 思わず、顔が緩んでしまう。

 彼女は、あどけなくも義経に頭を預けるように、浅い呼吸を繰り返していて。

 自分が先に目が覚めるなんて、思ってもみなかった。

 その素肌の肩に、毛布をかけ直してやりながら、天井と相談事を始める。

 自分の部屋とは違って、シミひとつない綺麗な天井だ。

 目が覚めたら、きっとこいつはまたジタバタ暴れだすんだろう。

 どうにかならないもんかね、と全然困ってもいない相談を持ちかけられた天井は、呆れているのか黙ったままだった。

 その沈黙に、義経は片目を閉じて。

 ゆうべは。

 嫌がる加奈を無理やり食事に連れ出し、怒る気をなくしてやるくらい、いろんな話をしたり、物を食べさせたり。

 思わず、彼女の仏頂面が崩れてしまうくらい。

 いつもより、ゆうべは素直に感じた。

 家に送った時、不承不承な顔だったが、彼のために部屋のドアを開けたのだ。

 おかげで、こんなに幸せな朝がくる。

 寝息も浅い加奈の唇は、薄く開いていた。

 こうしてみると、年より若く見える。

 それでも、切って縫ってという方面では、手品か魔術かといった技をやってのけるのだ。

 彼は、その唇をゆっくりなぞるようにキスをした。

 まだ気づく様子はない。

 それから、赤ん坊のような温もりの匂いがする、加奈の額に唇を寄せる。

 美春の子供の頃と、同じ匂いだと思った。

 やっと、加奈の肩が揺れる。

 お。

 ぱたぱたっと、二度ほどまぶたが動いて――目が開いた。

 寝ぼけたような色のまま。

 焦点が合ったのは、それから三度のまばたきの後。

 落下する夢を見た時みたいに、彼女の身体はビクンと震えた。

 にこにこの義経とびっくりの加奈が、互いに無言で見詰め合ってしまう瞬間。

 どっちが沈黙を破るのか、微妙な時だった。

 先に破ったのは――電話の着信音だった。

 加奈は、はっと手を伸ばし、枕元の携帯電話を取った。

 目は、その隣の時計を映している。

 刹那の表情の変化に、義経は理由に気づいて天を仰いだ。

 時計は、十時前をさしていたのだ。

 彼女の今日の予定は知らないが、おそらく――寝坊したのだろう。

「はい…もうすぐ行く……パターンは、部屋の右の棚んとこにあるから。赤い方じゃないからね」

 まいったな、みたいに金髪をかきあげる。

「型紙? 型紙は昨日とっくに渡してるから…そう、そう。指示は出してる」

 電話でしゃべる加奈は、いつもと違う顔をしていた。

 人を使う時の顔。

 珍しく凛々しいその横顔に、義経は目を奪われた。

 電話を顎に挟んだまま、彼女は細い上半身を、惜しげもなく毛布から出す。

 落ちているシャツを拾って、片袖を通そうとするのだ。

 次々、眉間にシワを寄せながら指示を出す加奈。

 不意に見られているのに気づいたのか、加奈は彼に背を向ける。

 まだ、もう片方の袖が通されていないため、しなやかな背中が、半分だけ見えた。

 義経は、その露出した背中に、唇で触れる。

 びっくりしたのか、加奈の産毛が逆立った。

 反射的に肘でどつかれる。

 ぱっと振り返った顔には、『邪魔すんな!』と、大きく書き記されていた。

 自分用のその表情に、義経は笑みに顔をゆがめる。

「もうすぐ行くから……あぁ、じゃあ」

 通話を切った加奈が最初にしたことは、振り返って紅潮した頬のまま――拳を固めたことだった。

 多分、いまたくさんの事が、彼女の頭の中に巡っていることだろう。

 昨夜のこと。

 そして、今朝の寝坊。

 さっきの義経。

 彼も、肘でどつかれた胸を押さえながら、スネた素振りをしてみせる。

 そう大して痛かったわけではない。

 しかし、加奈は悔しそうに拳を解くと、ベッドから飛び降りた。

 彼がモデルであるということを、考慮したうえでの判断だろう。

 でなければ、顔面を1、2発殴って、鬱憤を晴らしたいに違いない。

 確かに、鬱憤だ。

 加奈は、いま義経がベッドの上にいる事実を、人のせいにできずにいる。

 恋愛の卑怯者に、なれずにいたのだ。

「お前もさっさと服着て帰れ!」

 クローゼットから服を引っ張り出し、シャツ一枚の加奈は、がなるようにバスルームへと消えようとする。

「カギ、置いてけ……シャワー借りてぇし」

 義経は、それを止めなければならなかった。

 多分、彼女がこれから猛烈なスピードで仕上げて出て行く速さでは、自分の準備は終わらないだろう。

 あぁ?、と眉を上げて、元ヤンキーらしい表情が覗く。

「冗談じゃない、ポストに入れとくとか言ったら、今度こそ殴るぞ」

 てめぇんとこのマンションみたいな、無用心と一緒にするな。

 加奈は、舌を出して拒否をする。

 不用心という以前に、彼女は考えないものだろうか。

 このやりとりが、まるで恋人同士の痴話げんかだ、と。

 加奈じゃ、無理か。

 考えてみて、義経はふきだしそうになる。

 彼女にそんなことを指摘しようものなら、二度とそんなウカツなセリフは吐いてくれないだろう。

 黙っておいて、もっとウカツになって欲しいものだ。

「ポストなんて言いやしねぇよ…今日、オレは5時に上がりだから、オレん家にでも取りに来い」

 一瞬、きょとんとした加奈の顔が、いつかテレビでみた、オコジョを連想させた。

 なんて口にすると、きっとふざけていると怒り出すに違いない。

 あのオコジョは、かわいかったのに。

「そして、明日も寝坊か? 冗談じゃない」

 即座にオコジョから、引きつる顔に変化した加奈は、いま自分がかなりすごいことを言ったのに、やはり気づいている様子がない。

 このウカツさが、たまらない。

 さっき、揚げ足をとらなくて、本当によかったと思った。

「大丈夫……オレも、明日の朝早いからな」

 にこにこと上機嫌に、そして安心させるような言葉を出すが、彼女はまだ不信そうなままだった。

「行くのは、やっぱカンベン……さっさと出てけ」

「だーかーらー…間に合わねぇって……いいのか、時間?」

 言うと、思い出したように加奈は慌てる。

 出した鍵を、がしゃんとテーブルに置くと、彼女はこう言った。

「いいか、仕事が終わったら、あたしの仕事場まで返しに来い…絶対だぞ!」

 ついに、それで妥協したようだ。

 はいはいと答える義経の幸福を、彼女はきっと気づいてくれないだろう。

 にやけたままの彼は――銀の鍵を眺めて、しばらくゆっくりしていったのだった。
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