CROW

17:加奈

 ムカムカムカー。

 加奈は、遅刻の仕事場に飛び込んで、ほかの連中に遅刻のわけを問われる暇なんか与えないほど、忙しいフリをした。

 実際、忙しいことは忙しいのだが、そこまで切り回す必要はない。

 しかし、そうしていないと、昨夜から今朝のことが、みんなで加奈の邪魔をしようと企てるのだ。

「…あんにゃろう」

 でも、不意に型紙を起こしながら、ぽつりと呟いてしまうものだから、周囲のスタッフが何事かと顔を上げる。

 それに気づいて、彼女は自分に向かって舌打った。

 ブン殴ってくりゃよかった。

 要するに、自己嫌悪と困惑の二大政党が、心の中で拳を振り上げているのだ。

 その演説をぶつけ合わせると、加奈の中で苛立ちと不機嫌が出来上がる、という仕組みだった。

「センセー」

 そんな時でも、声をかけてくれる人はいる。

 先生なんて呼ばれるのはいやだったのだが、スポンサーにハクをつけなさいと言われて、しぶしぶそう呼ばせていた。

 おっくうに加奈が顔を上げると、来客だという。

 時計を見ると、4時半。

 まさか、と思った。

 まさか義経が、もうきてしまったのか、と。

 考えたら、あの男にここに寄るように言ったのは、失敗だった。

 好奇心旺盛な若いスタッフに、余計な勘ぐりを与えてしまう。

 それにまだ、彼は自分の母親の専属モデルなのだ。

 そんなのが、うちに顔を出すなんて。

 将来がどうなろうとも、いまは不必要なトラブルは避けたかった。

 袂を分けた母親に、彼女の野望を気づかれて、彼の身柄を押さえられかねない。

 契約という、非常に厄介なことだけに、加奈も神経質になっていた。

 しかし、すでに一度義経は、自分を訪ねてここにきているはずだ。

 誰が住所を言ったかは、謎だったが。

 問いただそうにも、今朝の遅刻があるものだから、咎めづらい。

 要するに――気まずい。

 いろいろと考えていた加奈は、しかし、それらが全て杞憂であることを知った。

 自分を呼んだ女性スタッフが、こう言ったのだ。

「あの、スポンサーの会社の方ですけど」

 しかし、それは彼女の心を軽くなんかしてくれなかった。

 ※

「こんにちは…何か?」

 応接室のドアを開けながら、加奈は長い息を吐いた。

 彼とは、昨日のパーティで顔を合わせたし、その時には何も言われることはなかったのだ。

 一晩明けて、どういった用件なのか。

 後ろに秘書を控えさせた状態で、スポンサーこと繊維会社の専務は、鷹揚な笑顔を浮かべている。

 加奈はソファを勧めて、それから自分も向かいに座った。

 秘書だけは、そこが自分のホームポジションのような顔で、専務の後方に立ったままだった。

「この間、君にもらった提案書を、今朝方読んでね」

 コーヒーをもってきた女性スタッフに、軽く会釈をしながら、彼は切り出した。

 わりとあっさりと。

 口調だけを聞くならば、まるでただ近くを通りかかっただけだから、みたいな雰囲気だ。

 普通なら、スポンサーの訪問という緊張の出来事が、一気にほぐれてくれる瞬間のはずだった。

 しかし、加奈は言葉に表情を曇らせた。

 提案書を出したのは、もうかなり前のことだ。

 だから、てっきり今頃は読み終わっていて、なおかつ検討中だと思っていた。

 まさか、今朝まで放っておかれたとは。

 確かに、彼女のスポンサーとは言え、他事業の代表取締役で。

 他にも仕事はたくさんあるのだろう。

 それなのに、じきじきに、こんな小さなデザイナーのところへ出向いてくれた。

 専務クラスとは言え、たいしたものだ。

「メンズ・ブランドの店について、だね」

 そう。

 それが、加奈のだしたスポンサーへの提案書。

 メンズ・ブランドの設立と、それに伴う専属モデルの引き抜き。

「ちと、性急じゃないかね」

 専務は、穏やかに言った。

 性急?

 加奈は、足を組みかけてやめた。

 礼儀とか、そんなもののためじゃない。

「どういう意味ですか?」

 眉ひとつ動かさない専務に、加奈はできる限り声を抑えて言った。

「分からんかね……まだ、レディースブランドが軌道に乗り始めたばかりだ。業界では、まだまだ君のお母さんほどの評価は得ていない」

 こんなところにまで、洋子が顔を出し、娘に対して舌を出す。

「そんな君が、『YOKO』からモデルを引き抜こうなんて…非常によくない波風が立たないかね?」

 私たちはね。

 専務は言うのだ。

「私たちはね…君に金銭の援助はできるよ。勿論、ギブアンドテイクだが。しかし、君の才能を、他の力でつぶされでもしたら……私たちには、才能の援助は出来ないのだよ」

 穏やかな言葉の羅列に、加奈は頭が痛くなってきた。

 要するに――もう少し有名になるまでおとなしく待ってろ、と言われているのだ。

 確かに、それはもっともな意見だ。

 理性の上では、分かりかけている。

 しかし、もう彼女は走り出しているのだ。

 もうすでに、加奈はたくさんのメンズを作成していたのだ。

 何のサンプルもなしに、提案書が通るとは思っていなかった。

 苛立つが、いまの加奈は、頭の中の言葉をうまく口に出来ないでいる。

 デザイン以外、脳の構造がバカな自分が恨めしい。

「よく…考えてくれたまえ」

 専務は、これ以上の長居は無駄と思ったのだろうか。

 秘書に軽く合図した後、立ち上がろうとした。

 待って。

 そう、言いたかった。

 このままでは、あの提案書が、しばらくお蔵入りにされてしまう。

 何かうまい言葉で引きとめ、説得しなければ。

 その時。

 応接室の外が、急に騒がしくなったのは。

 あちゃ。

 義経が来たに違いない。

 時間的には、5時すぎ。

 約束通りだ。

 だが。

 悲観的なものに押しつぶされようとしていた加奈は、はっとあることに気づいた。

 思わず勢いよく立ち上がって、専務に驚かれる。

「見て欲しいものがあります…とりあえず、見てください」

 沢山のことは、考えていない。

 彼女はいま、たった一つだけを考えていたのだ。
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