CROW
「羽村義経!」

 ある日、アトリエに顔を出した途端、いきなり洋子にフルネームで怒鳴られた。

 見るからに、おかんむりだ。

「さっさと来る!」

 音量の大きさに、義経は耳を押さえたかったが、そんな悠長な時間も与えてくれない様子で呼ばれる。

 何が気に入らなかったのやら。

 他のスタッフに、心配そうに見送られながら、洋子の部屋へと向かう。

 やれやれ、と肩をそびやかしつつ。

「おはよーございます、ヨーコさん」

 後ろ手でドアを閉めながら、義経はとりあえずご挨拶を投げる。

 彼女の反応が、見たかったのだ。

 しかし、確認するまでもなく、彼女のこめかみには交差点が浮いていた。

「おはようじゃないわよ!」

 絶対、ドアの外にも漏れているだろうなという声の大きさで、洋子はバンっと自分の机をぶったたく。

 そこには、ファックス用紙が置いてあった。

 義経の位置からでは、よくその文字が見えない。

 なので、近づいて確認しようとした。

「あんたの引き抜きの書類よ……追って正式に郵送します、ですって…立派な違約金の額ですこと!」

 ふざけてる!

 自分で確認するより先に、親切な洋子が要点を教えてくれた。

 ありゃりゃ。

 あれから三ヶ月。

 しばらく音沙汰がなかったが、結構早く決定されたようだ。

 半年くらいはかかると思っていたが。

 先に連絡すりゃいいのに。

 怒れる洋子を前に、その娘を思い出してため息をつく。

 おかげで、心の準備も何も出来なかったではないか、と。

 もしかしたら、また加奈は、自分を驚かそうとしたのかもしれなかったが。

「どういうことなの? わざわざ加奈と大手繊維メーカーが連名で、義経くんを指名してくるなんて……何の冗談?」

 冗談に思いたいのは、きっと洋子だけだ。

 仕方ないだろう。

 いきなり、娘が出て行ったかと思うと、レディースブランドを立ち上げて。

 それだけでも、かなりショックだったはずだ。

 挙句の果てには、母親の専属モデルを寄越せと言ってきているのだ。

「……まぁ、そういうことなんでしょう」

 義経に、うまい言葉が言えるはずがなかった。

 勿論、ウカツなことも言えない。

 まさか、すでに加奈の服を着て、彼女のスポンサーの前で見せた――なんて。

「そういうことって……ああもう」

 洋子は椅子に、まるで崩れるように座ると、自分の頭を抱えた。

 ひどく混乱しているようだ。

 ただ義経の反応から、このことをすでに承知している、というのは察しているはずだった。

 実際、ここまで無言で通してきたのは、悪かったと思っている。

 いつか、何らかの方法で埋め合わせをしようと思っているが、いまのところ彼女の娘を幸せにしてやる以外の方法が、とても思いつけない。

 そんなツラの皮の厚いことを、義経が考えていると知ったら、加奈は蹴りの一発でもくれるだろう。

 目の前の洋子に至っては、蹴りではすまないはずだ。

「大丈夫…『YOKO』なら、他のいいモデルが捕まるって」

 そう。

 洋子の服なら、自分でなくても綺麗に着られる。

「でも、アイツの服は…オレが一番着られるんだ」

 顔を上げた彼女に、義経はにっと笑った。

 その笑顔を前にしても、洋子は仏頂面を崩さない。

 違約金、本人の意思――と揃ってしまったら、もはや洋子には契約上、強制することは出来ない。

 契約書の項目に書かれていることを、クリアしてしまったのだから。

「あなたは…もうちょっと大人だと思ってたけど」

 だから、どんなに頭にきても、洋子は諦めたようにそう言わざるを得ないのだ。

 義経が大人とは、これまた高く買ってくれたものだ。

「大人どころか、子供そのものさ…一番おいしいアイスクリームの方に、無条件でダッシュするからな」

 万人受けする洋子のアイスより、自分に一番効くアイスを選択したのである。

 その表現に、洋子はがっくりと肩を落とし、怒る気力をなくしたようだった。

 力なく、追い出すように手を振る。

 細かい処理は、また後日――そう判断されたようだ。

 要するに。

 さっさと出て行け、と。
 
「でも、ヨーコさん…よく作ってくれたな」

 その指示に従いながらも、義経はドアのところで振り返った。

「何を? 服なら、あなたに頼まれて作ってるわけじゃないわ」

 言う通り、他のモデルだって着られるわよ。

 かなり腐った口調だ。

「服じゃなくて…娘だよ」

 よくまあ、義経にぴったりの子を。

 怒りっぽくて素直じゃなくて口も悪くて――だが、かなり可愛い。

 おかげで、義経の人生は大きく変えられてしまった。

 あなたの娘の才能以外も、立派に愛してますなんてセリフは、洋子がこの怒りを忘れない限りは言えないだろう。

 義経の心を知らない洋子は、思い切り顔を歪めた後、FAX用紙を嫌がらせのように二つに裂いた。

「あいにく…娘も、あなたに頼まれて作ったわけじゃないわ」

 痛恨の一撃。

 やっぱり言わなければよかったと思いながらも、義経はニヤニヤしながら扉をくぐったのだった。
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